新撰組鬼の副長、土方歳三。国のために最後まで戦い抜いた生涯に迫る。
特集
2019.07.17
幕末の悲劇のヒーロー、新撰組の中でも「鬼の副長」と呼ばれるほどの冷徹な人物と語られる土方ですが、彼ほど新撰組のことを思い、散っていった人物もいません。
美麗なルックスに洋装姿の土方は今も昔も女性からの絶大な人気を誇っていますが、今日はそんな土方の生涯について振り返っていきます!
目次
◆ 土方歳三ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地: 武州日野(現在の東京都日野市)
・生涯: 1835年〜1869年(享年 35歳)
・新撰組の副長として京都警護に尽力
・戊辰戦争に参戦し最後は函館の五稜郭にて戦死
◆ 多摩のバラガキが江戸の剣豪に到るまで!
天保6年(1835年)5月5日。
多摩にある豪農の家に、後に『バラガキ』と呼ばれる男の子が誕生しました。
バラガキとは『茨のトゲのように触るとケガをするほどの乱暴な子』という意味のようです。
そんなバラガキは隣近所でケンカがあると決まって「アイツがやった!」と言われたり、奉公にでればケンカして飛び出してくるなど絵に描いたような不良でした。
三男だった為か、名を歳三と名付けられました。
14歳くらいの頃、江戸は上野の『松坂屋』、つまり現在の松坂屋上野店に奉公に上がりますが番頭と喧嘩をして郷里に戻ってきてしまいます。
そんな中、『俺は武士になるんだ!』といつも口にしていたバラガキは「天然理心流」という剣術の流派と出会ったのです・・・
後に新撰組『鬼の副長』となる土方歳三が誕生するきっかけとなった瞬間でした。
土方は、天然理心流の道場では6段階ある階級のうち3つ目である「中極意目録」までしか授けられていないと記録にあるため「剣術の実力はあまり・・・」と言われることがあります。
しかし、これは「流派」という部分と「土方の性格」が原因!
土方は、「石田散薬」という薬屋であった実家で作る薬の行商を行う途中にあちこちの道場に出稽古し、メキメキと実力をつけていましたが、そこで身に付いた他流派のクセが中々取れなかったそうです。
流派は『スタイル』なので、階級のアップはその流派のやり方が出来るってのが大前提になります。しかも、当の土方にも目録や段位は関心がなかったようですね。
ただ、彼の強さは『ケンカ』にあったと云われています。
斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり、隊服で首を絞めて絞殺したり・・・
道場では『頑張ってる』、だが『実戦ではべらぼうに強い』というのが土方についた評価です。
ただ、土方が天然理心流試衛館に入門した翌年には『武術英名録』(江戸を除く、江戸近郊の剣豪の名鑑)に、すでに『土方歳三』の名が掲載されており『アイツ強いぞ!』というのが噂になっている事実があります。
色んな技を考案し、殴りつけたり、組み打ちも使ったり。
型破りですが「負け=死」の状況が来てしまった幕末では、理念や理屈より大事なことを知っていたんだと思います。
史書にも『新選組の剣術稽古では、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら指導していた』とあります。
時代が変わっても、稽古で流す汗の大切さは変わらないですね。
◆ 土方は実家へ手紙で「モテ自慢」をしていた?!
さて、京に出てから新撰組を結成し、粛正、池田屋事件と新撰組は華々しい活躍を見せました。
この頃、土方はある手紙を実家に宛てて書いてます。
その内容は『京都でモテてモテて困る』というもの!
実際、土方はモテたらしく、色々と『証拠』も残っているそうです。
にしても、実家への手紙にモテて困るとは土方は相当の好男子だったようですね~
◆ 土方歳三のここがスゴイ「幾多の逆境にも負けずに最後まで戦い続けた!」
しかし、その後しばらくして戊辰戦争がはじまると、幕府軍は敗走。北に北にと戦場を移します。
その間に、新撰組二番隊組長を務めた永倉新八が意見を対立させて新撰組を離脱。
同じく、新撰組十番組長であった原田佐之助の戦死。
局長である近藤勇の投降、そして斬首。
一番隊組長、沖田総司の病死。
そうした数々の逆境の中、土方は明治へと元号が変わってからも戦い続けました。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、弁天台場が新政府軍に包囲され孤立の報が届くと、土方は僅かな兵を率いて出陣していきます。
そして、戦局は箱館付近の松前口が破られれば、退路が絶たれる危険があるという事態に。
「潮時か・・・」
土方はやむなく二股口から退却、五稜郭へ帰還しました。
退却した土方に飯が出ると、
『何もありませんが。』
そういって出されたのはスルメと数の子の和え物で『松前漬け』と呼ばれる松前(北海道)の料理だ。
そういえばアイツも松前(元松前藩士)だったな・・・
土方は江戸っ子の元松前藩士の隊士を思い、京での出来事を思い出しながら、松前漬けに醤油をかけて食べたのでした。
「しょっぺぇ・・・やっぱり合わねえか・・・」
土方は関東風の象徴の『醤油』を自分に、松前藩(北海道)の『松前漬け』を永倉新八に見立てていたようです。
「松前漬け」とは元々豊富にとれて余っていた数の子に、スルメと昆布をあわせて塩で漬け込んだものでしたが、時代が移り変わるとともに、醤油を主体に配合した調味液による味付けへと移っていき、現在は市販もされています。
やりようによっては『いいコンビ』だったのでしょうね。
後に土方の使いで日野に向かった市村鉄之助は、夜半に人影をみた気がしたと語り、土方が『松前漬け』に見立てた男は、後に北海道に帰還し、鬼の副長に涙したと云われています。
官軍の包囲網をかい潜り日野の実家まで土方の遺品として、刀の『下げ緒』を届けたというエピソードがあります。
辞世の句は「鉾とりて 月見るごとに おもふ哉 あすはかばねの 上に照かと」。
(鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと)
◆ まとめ
最初は多摩で薬を売り歩いていたやんちゃ坊主の土方が、鬼の副長と呼ばれる冷徹な剣士へと変貌を遂げ、最期は幕臣として戦い抜きました。
新撰組のため、国のために生涯をかけたドラマチックな生き様は今でも多くの人の心を掴んで離しません。