【源義経】平家討伐の立役者。その生涯とは? 戦上手であった? そして悲惨な結末とは?
特集
2020.02.22
(源義経像)
父の仇を取るべく「平氏討伐」に生涯をかけた「源義経」。
「鎌倉幕府」を作った兄「頼朝」と共に「平氏討伐」を行ないましたが、最終的に「頼朝」に自害を迫られる、悲惨な結末を迎えてしまいます。
源義経といえば、滝沢秀明さん主演の大河ドラマ「義経」としても話題になりましたね。
兄「頼朝」のほうが歴史上では功績がありますが、人気は圧倒的に「義経」という、不思議な兄弟です。
義経の命運は”兄頼朝との関係性”というところがキーポイントとなっていきます。
平安後期から鎌倉時代の日本の中心的人物だったこの二人がどのようなドラマを展開していくのでしょうか。
わずか31年という「源義経」の生涯に迫っていきたいと思います。
目次
◆『義経』はお坊さんになっていたかもしれなかった!?
(鞍馬寺天狗像 京都府)
「源義経」は1159年、「源義朝」の9男として生まれます。幼名は「牛若丸」といいました。
兄の「頼朝」は「正室」の子どもに対して、義経は「側室」の子どもとして生まれるのです。
当時、後継を残すことが重要視されていたため、「一夫多妻制」は当然としてあり、その当時の「正室」というのは本妻のことをいい、「側室」というのは本妻以外の妻のことをいいます。
ただやはり正室の子どもの方が一族の跡取りとしては、優先されていたようです。
そんな牛若丸(義経)が生まれた当時は、まだ皇族が政治の実権を握っている状態でした。
一方「武士」はというと、政治を治めている皇族が決めた制度などで不満が高まっている状態だったようです。
この「武士」の二大勢力として、義経や頼朝の一族でもある「源氏」、後に頼朝の最大の敵になる「平清盛」の一族である「平家」、この2つの一族は当時を代表する武士の勢力でした。
そのような中、政治の実権を握っていた皇族同士が争うことになり、そこにこの両者が便乗をし、戦を繰り広げていくことになるのです。
義経が生まれた1159年というのは、丁度父義朝が平家と対立をし、義朝と平家が戦をすることになった年です。最終的に父義朝は敗死となり、この戦が「平治の乱」といい、平氏が一気に勢力を強めた戦となります。
この戦をきっかけに「源平」の憎き争いが始まるのです。
平家に頼朝や義経も捕まることになり、兄頼朝は処刑されかけますが、周りの者の嘆願などにより「流罪」(人がほとんどいない辺境地にとばされる刑)となり伊豆に流されることで済みます。
一方牛若丸(義経)はまだ幼かったことなどから、「将来僧になるのであれば命を助ける」ということになり、なんとか命は助けられました。
そして牛若丸(義経)は11歳の時に京にある鞍馬寺(くらまでら)で仏道修行を行うことになるのです。稚児名(寺院などに入ったときにつける名前)を遮那王(しゃなおう)と名乗りました。
ちなみに同母兄弟である兄2人も他の寺で同様に修行を行い、彼らは出家して僧として生きていったようです。
しかし遮那王(義経)は僧として生きて行くことを拒み、ついには鞍馬寺から逃げ出します。
その後自ら元服(男子が成人になったことを示す儀式)をし、そこで名を「義経」と名乗ることになりました。
義経となった後、奥州藤原氏(現在の岩手県平泉を中心に活躍した武将)のところに身を寄せたと云われています。
◆父の仇のために兄『頼朝』と再会
(源義経騎馬像 徳島県小松市 出展:Wikipedia)
「平治の乱」の後、平清盛を中心とした平家が躍進をしていき、朝廷で実質的な政権を握ることになりました。
1170年代中盤ぐらいまでは平家の全盛期であったともいえます。
ただそんな平家に対しても、政治を独占しようとする姿勢などに、徐々に武士や皇族内でも不満が高まっていきました。
そんな平家の政権が続く中、ついに源氏が立ち上がり、再び平家に立ち向かうことになります。
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)から、平家討伐の令旨(天皇や皇族などの命令を伝える文書)が全国の源氏に届きました。
以仁王は父親である後白河法皇が平清盛のクーデターにより幽閉(牢屋などの一室に閉じ込めること)され、そこで源頼政の勧めに従い全国の源氏に令旨をだすことになったのです。
平家に恨みのある源氏とともに以仁王は、父の後白河法皇を助け出すことを試みます。
そこに頼朝や木曽義仲(義経のいとこ)らが挙兵をし、平氏討伐の機運が高まっていきました。
奥州藤原氏のところに身を寄せていた義経ですが、義経は兄頼朝が挙兵をしたことを聞き、自らも「親の仇」、そして「兄を助ける」ために頼朝の元に向かうのです。
その当時、奥州で親睦のあった藤原秀衡もこれに賛同し、秀衡の家臣も義経に派遣しました。
藤原秀衡は、義経が躍進し朝廷においての立ち位置を高めていく可能性を感じ、そうすれば奥州の立ち位置も上げられる、そのような狙いがあったと考えられます。
頼朝が1180年の「富士川の戦い」で勝利した後、黄瀬川の陣(現在の静岡県駿東郡)でついに義経は頼朝と「再会」することになるのです。
◆義経の最強の相方『武蔵坊弁慶』!!
(『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画) 五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵 出展:Wikipedia)
ここで一旦、義経の郎等(武士のおともをする人)として有名な「武蔵坊弁慶」についてふれてみましょう。
弁慶といえば、恰幅がよく豪傑なイメージがあり、大河ドラマ「義経」において弁慶役を演じたのが「松平健さん」であるということも頷けるかと思います。
またそのイメージから、「弁慶の泣き所」や「弁慶の立ち往生」、「内弁慶、外地蔵」といった言葉が現代でも使われており、「弁慶」という存在が歴史上においても圧倒的な強さであったと考えられますよね。
そんな弁慶が義経の郎等になった有名なお話があります。
あれくれ者として名を馳せていた弁慶は、京で帯刀している武者と決闘をし千本の太刀を奪うという目標をたてます。999本の刀を奪い残り1本で五条大橋で義経と出会うこととなりました。
もちろん弁慶は義経の太刀を奪うために決闘を挑みますが、義経の軽い身のこなしで弁慶は返り討ちにされるのです。
この後、弁慶は義経の郎等となったといわれています。
実がこのお話は後に作られた創作話とされていますが、いまだに語り継がれており、2人の剛柔の様が想像できるかと思います。
◆様々な戦法でついに「平家討伐」!! しかし…
(源義経・平和盛像 壇ノ浦の戦いの様子 山口県下関市)
義経は頼朝と再会後、頼朝は平家討伐に向け政治を整え、義経は討伐のために前線に立ちます。
そんな中、一番の宿敵である「平清盛」が病死してしまったのです。
平家は弱体化していくも、源氏とは戦う姿勢を見せたため、戦は続きます。
義経は前線部隊として、「平家討伐」のために数々の戦を繰り広げていくことになるのです。
1184年、後にいわれる「一ノ谷の戦い」で奇襲作戦を仕掛け、平家軍に大勝利しました。
そのときの奇襲方法とは、敵軍が急な崖を背に待機していたところ、義経はその崖を上から下り敵軍の背後から攻め込んだというものです。
敵軍は予想外の方向からの攻撃であったため対応できず、義経の奇襲作戦は成功しました。
一ノ谷の戦いの後、義経は頼朝から京の治安回復のために京に留まれ、という命令がされます。
そこで後白河法皇や公家(朝廷に仕える貴族)からの信頼を得ることになりますが、これが後の兄弟喧嘩の火種になるとは思ってもいなかったことでしょう。
その後におきた、「屋島の戦い」では兵力が少ないなか、なんとか勝利します。この戦いにおいては那須与一の逸話なども有名ですね。
そして、京都から西に西に平氏を追い詰めていき、1185年に彦島(現在の山口県下関市)で平家と最後の戦いをするのです。この戦いは舟上での戦いであったといわれております。
この戦においての義経の戦法としては様々な説がありまして、その中の一説で、義経は敵軍の武士ではなく、水夫(舟を操縦する人)を矢で射ち落すことを家臣に命じたのです。
当時の暗黙のルールとして戦に直接関わらない人(水夫など)を殺めるのはご法度とされていたのですが、義経はこのルールを無視し、敵軍の舟を操縦不能にし攻め込んで行ったと言われております。
義経は戦を優位に進め、そして最終的に平家を滅亡させました。
「平家討伐」を達成したこの戦いが後にいわれる「壇ノ浦の戦い」です。
これらの戦いを見ても、義経が戦上手であるといわれた所以がわかるかと思います。
しかし、こうして亡き父の仇をとった義経と頼朝ですが、実はこの時期にはすでに2人の仲は最悪の状態になっていました。
◆兄弟の仲は修復不可能に…ついに『義経』の死!!
(中尊寺金色堂 岩手県平泉)
義経と頼朝の仲が悪くなった原因の一つとして、前述にあった「後白河法皇」が背後にあります。
後白河法皇は頼朝にこのままだと政治の実権を握られると危惧し、信頼関係を得ている「義経」を利用し、頼朝に抵抗をしていくのです。
1184年に後白河法皇は義経に検非違使(けびいし)・左衛門尉(さえもんのじょう)の任官をしました。
義経は頼朝が喜んでくれると思いましたが、疑り深い頼朝は自分に何も相談せず、勝手に官位を受けたことから反感を買うことになったのです。
ここから徐々に兄弟の関係が悪くなっていきました。
しかし関係は悪くなっていたものの、頼朝は義経の戦上手なところは認めていて、前述の戦いにも頼朝が義経を派遣する形になっています。
義経は頼朝の許しを得るために、鎌倉に向かいますが頼朝はそれを拒否し、義経は腰越状という許しを得るための嘆願状のようなものを、頼朝の家臣である大江広元にとりなしてもらうのです。
義経はなんとかして頼朝の許しを得ようとしましたが、頼朝はそれをも拒否をし二人の溝は深まるばかりでした。
2人の関係はほとんど修復不可能な状態でしたが、頼朝は最後のチャンスを義経に与えるのです。
頼朝は義経に対して、頼朝と最終的に対立した木曽義仲と手を組もうとしていた「源行家」を討つように命じました。
しかし義経はそれを仮病を理由に断りを入れます。
頼朝はここで我慢の限界を超え、ついに義経討伐を開始しました。
義経は九州に逃げようとするも失敗に終わり、最終的に元服後に身を寄せていた奥州藤原氏がいる奥州に逃げます。
そこで藤原秀衡に義経は匿ってもらい、頼朝からなんとか逃げることに成功しました。
しかし、それも束の間でした。頼朝は義経が奥州にいることに気づき、奥州藤原氏に義経を差し出せと圧力をかけます。
義経と親睦があった藤原秀衡が存命の間はまだ匿ってもらえたのですが、秀衡が亡くなり後を継いだ泰衡はついに頼朝の圧力に屈して、義経の討伐を始めました。
1189年、追い込まれた義経は正室と娘を殺害し、ついに自害をします。
享年31歳でした。
◆まとめ
源義経の生涯を振り返っていきましたが、いかがでしたでしょうか。
当時としてはかなり知的な武将であったため、兄頼朝の存在がいなければ義経が幕府を立ち上げてたかと思えるほどです。
義経は知的な武将として先駆け的な存在、そして相方弁慶という存在、そして悲劇の結末という部分が兄頼朝より人気な存在である理由なのかと感じました。