サムライ書房

あの信長も折れた『前田利家』とは??『槍の又左』との異名を持つ利家の生涯に迫る!!

(前田利家としいえ 甲冑)

前田家稀代の『傾きもの』といわれた武将とは??

やり又左またざ』の戦い振りとは??

信長に仕えたイケメンで、家康と共に『五大老ごたいろう』についた男、バイタリティーの武将『前田利家としいえ』の生涯に迫ります!!

 

◆前田利家ってどんな人?

(出展:Wikipedia)

・生涯:1539年〜1599年(享年 62歳)

・出身地:尾張国(現在の愛知県)

・初代加賀藩藩主

・長やりの使い手で、『やり又左またざ』の異名をもつ

・豊臣政権時の五大老ごたいろうの内の一人

◆傾きものから『槍の又左』へ!!

(前田利家公初陣之像 荒子駅 愛知県名古屋市)

天文7年(1539年)、尾張国の荒子城(現在の名古屋市中川区荒子)の城主前田利春の四男としてある赤子が生まれます。

その子は幼少にして品行方正、学問聡明そうめいにしてはなはだ美童でした。

ところがこの男の子、素直に優等生にはならなかったのです!

女ものの着物に派手な元結い。喧嘩っ早く、当時の世に言う『傾きもの』という、現在でいう『不良』や『ヤンキー』といったものでした。

この子どもが『前田利家としいえです。幼名は『犬千代』

犬千代は、14歳の頃に信長の小姓(身分の高い人に仕えた少年)として仕え始めます

実力主義の信長に腕っぷしを見込まれ、信長の『馬回うままわしゅう』(大将の周囲に付き添っている騎馬の武士)となります。

これは信長の親衛隊とも言えるポジションです!

傾きものの犬千代はさぞ気合いが入ったことでしょう。

利家の身長は180cmの大柄な体で、しかも派手な朱色の長やりを持ち、その槍の長さは三間半(約6m30cm)という長大なものでした。周りからもとても目立つことが伺えます。

初陣は信長に仕えて間もなく、数え14歳の頃に敵の首をあげました。

敵の真っ只中に飛び込み、縦横無尽に大やりで暴れまわる傾きものは、味方には士気をあげ敵には恐れを抱かせました 。

そんな犬千代は、初陣後に元服げんぷく『前田又左衛門利家』と改名した事でやりの又左(やりのまたざ)』と異名をとりました。

◆『槍の又左』の戦い振りとは??

弘治2年(1556)に信長と、その弟『織田信勝』とで行われた、織田家の当主を争う稲生いのうの戦いの時のことです。

この戦で、奮戦する利家としいえに、敵将が『誰ぞあの傾きものを討ち取れ!』と言うと敵の弓大将、宮井勘兵衛が乗り出しました。

利家の朱色の大やりを手に暴れまわる姿は目立ち、勘兵衛は弓を引き絞ると利家の顔をめがけ、矢を放つ!

矢は狙い違わず顔面に突き立ち、敵陣営は歓声をあげましたが、利家はむっくり起き上がります!

なんと矢は頬骨ほおぼねで止まっていたのでした!

利家は周囲の退却を促す声に『まだ手柄を立てておらぬ!』と血で染まった鬼の形相で敵陣に迫り、お返しとばかりに槍を突き立て見事、勘兵衛を討ち取ったといわれています。

また、大坂本願寺攻めの折り、堤を越えて退却する際には殿(しんがり)という最後尾を引き受けました。 

これは追撃する敵に討たれる可能性が最も高いポジションです。

いくら武将でも命が大事なので、普通は逃げながら戦うんですが、利家は堤の上で仁王立ちとなって敵を食い止め、なぎ倒し、味方を逃がしたといわれています。 

この話から利家は『堤の上のやりと称賛されました。

そんな利家としいえは若い頃は勇猛ではありましたが、短気でもあったようです。

信長の側に仕えていた『捨阿弥(じゅうあみ)』という人物は、よく武将をからかったりする事がありましたが、信長のお気に入りだった為、他のものは歯噛みしていたようです。

ある日この捨阿弥じゅうあみ利家としいえの太刀のこうがい(刀についているかんざしのようなパーツ)を面白半分に盗むという事件がありました。

(『こうがい』 「刀装具 小道具 笄 鉄地 無銘 鶏親子図」)

他の者が止めましたが、利家としいえ捨阿弥じゅうあみを斬り殺したのです。

その為、信長の怒りに触れ『出仕停止』、つまり謹慎となってしまいました。

◆『前田利家』のここがスゴい!!

(若き日の織田信長像 岐阜公園 岐阜県岐阜市)

普通、謹慎させられたらおとなしく家から出ずにいるものですが、利家としいえはなんと『勝手に戦に出る』という手段に出るのです!

謹慎の翌年、桶狭間の戦いに勝手に参戦して合計3人の敵将の首を取って、信長の前に差し出します。

信長も意地があるので、プイとそっぽを向きました。

こうなったらお互い意地の張り合い!お互いに引きません!

その翌年森部の戦いでも利家としいえ無断出撃し、敵の豪傑ごうけつ『頸取(くびとり)足立』とあだ名される『足立六兵衛』の首を取ります。

この首を持って信長の前に出た所、やっと帰参を許されたといわれているようです。

あの信長も『折れた』利家としいえの無断出撃のエピソードでした。

◆『槍の又左』の晩年

(金沢城 旧尾山城 前田利家としいえが豊臣秀吉に与えられ入城した城 石川県金沢市)

利家としいえは信長の死後『盟友』豊臣秀吉の傘下に入り、豊臣政権の五大老ごたいろうといわれる、秀吉の『秀吉に次ぐポジション』ともいうべき有力家臣の役職の1人となります。

そのメンバーは徳川家康、毛利輝元、上杉景勝かげかつ宇喜多秀家うきたひでいえそして前田利家としいえというすごい顔ぶれで、利家としいえは他の四人を牽制し、一目置かれる存在でした。

五大老ごたいろうにおいては大きくなる家康を牽制する立ち位置になるのです。

秀吉の臨終の際には家康と共に枕元に呼ばれ『秀頼ひでよりを頼みますぞ!』と、秀頼の後見を託されました。

この為、利家としいえ自身も『虫の気(内臓疾患)』を患っていましたが、無理を押して上洛(京都に行くこと)し、新年の挨拶に秀頼を膝の上にのせて大名達に睨みを効かせたといいます。

若い頃は喧嘩っぱやく短気でしたが、後に城主、大名となり、『大老』となっては徳川、豊臣の『パイプ役』とも言うべきポジションとなりました。

しかし体を酷使したせいか、慶長4年閏3月3日62歳で死亡。

その直前には遺産の整理、遺言状等を揃えていたそうです。

◆まとめ

百万石といわれた加賀の国をほとんど一代で築きあげた利家としいえ

若い頃は血気盛んで、それが『やり又左またざ』と言われるまでにはそうそう時間が要りませんでした。

むしろ、その後『ただの武骨者』と言われないように茶、能などに打ち込み、信長に仕え、秀吉と共にくつわを並べ、家康と渡り合った利家としいえ

ヤンキーが先輩の会社に入って、バイタリティーでのし上がっていく。

そんなサクセスストーリーのような武将。

利家としいえの生き様はもしかしたら現代でも同じように通じるのではないでしょうか。

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