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「ナチュラル・ボーン・徳川キラー」真田幸村の生涯に迫る!!

鹿の角を両脇につけたかぶとに、真っ赤なよろい、十字型のやりを持った姿。

『あの世への渡し賃』と言われる『六文銭』の家紋でも有名な真田幸村は今でも最も人気のある武将の1人です。

 

◆ 真田幸村ってどんな人?


(出典:Wikipedia)

・出身地: 信濃国小県郡(現在の長野県上田市)

・生涯: 1567年〜1615年(享年 48歳)

・真田家の人質として上杉、豊臣の元を渡り歩く

・関ヶ原の戦いでは西軍として石田三成陣営に加わる

・大阪夏の陣では家康を追い詰めるものの戦死

◆ 実は真田幸村という人物は実は存在しなかった?!

日本一ひのもといちつわものと語られる真田幸村。

真田幸村をご存知の方も多いと思いますが、実は「真田幸村」という人物は実在していません。

これは「真田信繁」の武勇伝が語られる『講談』の中でついた名前と言われています。

でも「なぜ?」「いつから?」という質問にお答えしましょう!

『幸村』というの名前が出たのは江戸時代。1672年頃(寛文12年)に編纂された軍記物語『難波戦記』が初めてと伝えられています。

『難波戦記』が人気が出て、劇中の『幸村』なキャラが浸透したため、以降はこちらが一般的となったようです。

ではなぜ名前を変えた『別の人間』として描かれたのか?

その理由の1つは『徳川の世で幸村が徳川に敵対する話』だったからと言われています。

今よりもっと政治批判に対する罰が激しかった時代に『徳川を苦しめた実在の人間を描く』と色々不都合があったのかもしれません。

それならばなぜ出版は大丈夫だったのか?

理由は『徳川2代将軍、秀忠の関ヶ原での遅参の正当化』にあります。

当時、4代徳川家綱の時代、家康は『神君』いわゆる神様として奉られ、二代将軍秀忠も『格好悪くては示しがつかない』という話になりました。

その中、秀忠の最大の汚点『関ヶ原での遅参』を誤摩化すため、物語中では『秀忠が凡将なのではなく、真田親子がもっと名将だったから遅参した』という理由を作りあげたのです。

しかも『主君に最後まで忠義を尽くす』という真田の態度が徳川好みだったため、幕府側はあえてそれを禁ずることはしませんでした。

この話が出版され『信繁は幸村』は半ば公然の秘密、形式上の都合と容認することで徳川幕府は『反抗者を英雄にする』ことなく『二代将軍の面子』を立てた形になったのです。

ところが、ここで大きな大誤算が!

幸村の名はあまりにも有名になってしまったため、幕府編纂の系図資料集である寛政重修諸家かんせいちゅうしゅうしょかや兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」の名前が採用されてしまったのです!

これが今日の『真田幸村』の認識とつながっていくことになります。

◆ 人質として戦乱の世を渡り歩いた真田幸村の生涯とは?


真田信繁(幸村)の幼名は『弁丸べんまる』。

永禄10年(1567年)に当時、祖父幸隆と父の昌幸の勤務先『武田信玄』のお膝元である甲府で生まれたといわれています。

さて、天正元年(1573年)に信玄が駒場で陣没し、信玄の四男・四郎勝頼が家督を継ぎますが、翌年、真田家当主・真田幸隆(幸村の祖父)も没してしまいます。

これで一時、幸隆の嫡男・信綱が家督を継ぎましたが、武田軍が長篠の合戦(天正3年)で敗北。

この戦で信綱と昌輝(幸隆の次男)が戦死。

これにより三男昌幸が養子に出ていた武藤家から真田家に帰還し、真田家を継ぐことになりました。

そのころ幸村は8歳で、いきなり『真田本家の第二王子』となり公式に真田郷に『入る』ことになります。

ところが! 天正10年武田家は滅亡!

主を失った真田家はピーンチ!

ここから御家存続のため、幸村の人質ライフがスタートしたのです。

秀吉から優れた軍略家ぶりを表裏比興ひょうりひきょうと評された幸村の父昌幸は武田家が滅ぶと、北条 → 織田信長 → 北条 → 徳川 → 上杉 → 豊臣と次々に主を変え、弁丸は哀れ同盟の証のための人質ライフまっしぐらになるのでした。 

とりあえず秀吉の元にいった幸村(この頃信繁と改名)、この頃秀吉に可愛いがられ、一時は養子となる話もありました。

意外と思われますが、秀吉は若い武将を我が子の様に可愛いがったと言われています。

その中でも気に入られたのが石田三成、直江兼続、大谷吉継、真田幸村。他にも伊達政宗に子飼いの加藤清正や福島正則もです。

そして小田原攻めで、真田が先陣をつとめた時に秀吉は『しっかりやれ!』と声をかけたと伝えられています。それは幸村が『人質』ではなく『武将』としてデビューしたことを意味するのでありました 。

◆ 豊臣に忠義を尽くし、最後まで徳川を追い詰めた幸村の生き様

秀吉が亡くなってしばらくの後、石田三成の挙兵で「関ヶ原の合戦」が始まると、幸村は父、昌幸と共に豊臣方に味方し、本拠地上田で徳川軍4万近くを3千人足らずで翻弄!

よく小説ではこの合戦で猿飛佐助や霧隠才蔵きりがくれさいぞう三好清海入道みよしせいかいにゅうどう等が活躍する場面が描かれます。

何はともあれこれで家康の息子、秀忠は『天下分け目の合戦』といわれる関ヶ原の合戦の場に間に合わなかった! という大失態(家康はカンカン!)

その頃、関ヶ原では家康が勝利をおさめ、敵だった真田親子に処分が・・・

ここで両者を取り成したのが、家康側についていた幸村の兄、信幸です!

彼のお陰で九度山くどやま(現在の和歌山県)に流されることで済んだ昌幸と幸村。

これでも異例のお目こぼしでした。

しかし! 来たる1615年、またもや戦となる『大阪冬の陣』です!

この戦は家康が豊臣家臣を根絶やしにするために因縁を吹っ掛けたことではじまりましたが、この時に大阪陣営側で大々的に『豊臣恩顧の武将、募集中!』と声明があったことで『鳴り物入り』で大阪に来たのが幸村でした。

籠城ろうじょうを決め込む秀頼に対し、彼は討って出ることを主張して出城を作り、戦を優勢に進めます。

ところが戦に『不慣れ』で「豊臣恩顧の武将が救援に駆けつける!」と信じて止まなかった淀君籠城ろうじょうじゃ!』というヒステリックな一声で豊臣は滅びの道のスイッチを押すこととなります。

辛くも「冬の陣」を乗りきったものの、そのまますぐに「夏の陣」が勃発!

家康軍の猛攻に誰もが『もはやこれまで』と思ったそのとき!

幸村のここがスゴい!

なんと家康のいる『本陣』に特攻!

並みいる武将達をかき分け家康にあと1歩という所まで迫り寄ります。

家康はその勢いに恐怖し、人目もはばからず逃げ出したと云うではありませんか。

しかし、何十倍もの敵に囲まれ、幸村死す。

慶長20年(1615年)5月7日。

『日の本一の兵』と云われた武将、幸村は今でも人気のある武将です。

◆ まとめ

戦国の波乱の中を渡り歩いた英雄、真田幸村。

日本一と言われた強さもさることながら、豊臣家への忠義を尽くし、逆境の中宿敵である家康に果敢に挑んでいった生き様は今でも多くの人に愛されています。

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