人情に厚く人間味あふれる天下人、豊臣秀吉の素顔に迫る!
特集
2019.07.10
1467年の応仁の乱から数えて100年以上にも及んだ戦国の世を、ほぼ1つにまとめることに成功した豊臣秀吉。
秀吉抜きでは日本の歴史を語ることはできないといっても過言ではないでしょう。
今回は豊臣秀吉の知られざる一面について紹介していきます!
◆ 豊臣秀吉ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地: 尾張(現在の愛知県)
・生涯: 1537年〜1598年(享年 62歳)
・最下層の身分から立身出世し天下人にまで上り詰めた
・織田信長に仕え「本能寺の変」では信長の仇を討ち明智光秀を破る
・「小田原の役」で北条氏を降伏させ天下統一
◆ 豊臣秀吉のここがスゴイ「秀吉は自分のご飯を食べずに家来に与えていた!」
豊臣秀吉というと『晩年』のイメージが強いですが、今回は『未完成の秀吉』、つまりまだ秀名と名がつく前の藤吉郎のエピソードについて紹介します。
政治家と同じで、権力を持ってからの秀吉は悪く語られることもありますが、最初からそうではなかった『ハズ』です。
秀吉が親戚である加藤清正や福島正則らをまだ養っていた頃、彼らにお腹一杯ご飯を食べさせた事がありました。
彼らが『オヤジは食べないのか?』と聞くと、秀吉(藤吉郎)は『俺は信長様にたらふく貰ったから!お前らで食え食え!』と痩せ我慢をして見せました。
その夜、厠に目を覚ました虎ノ助(清正)と市松(正則)が見たのは空腹に耐えかね、正妻である寧々(ねね)の膝で泣く秀吉でした。
『バカだねあんた…なんで全部あげちまったんだい?』
『あいつらは家臣のいねぇ俺にとって、最初の家臣になってくれるはずなんだ…だからいっぱい食わせてやらにゃなんねぇんだよ…いつかアイツらが立派な武将になって、俺の周りにいるんだ!格好いいぞ~…しかし腹減ったぁ~』
涙を堪えて寝た虎ノ助達は『いつか立派な武将になってオヤジ(秀吉)を楽にしてやるんだ!』と誓ったそうな。
後日、立派な武将となった清正と正則は成人の折に秀吉に贈り物をしたそうです♪
◆ 豊臣秀吉の知られざる一面「天下人である秀吉でもなかなか手に入れられなかったものとは?」
豊臣秀吉は北条氏を打ち破ると日本の大部分をおさえ「天下人」として君臨します。
周りからは『叶わぬ願いはない!』とまで云われた絶頂期に『それでも1つだけ叶わない』と秀吉が呟いたことがありました。
それが『子ども』でした。
秀吉は足軽あがりの小男で、少年期の栄養が足りていなかった為かいわゆる極度の痩せ型で、身長は140㎝程しかなかったとも云われています。
天下人になり、数多くの側室を抱えていましたがそれでも子どもはできませんでした。
そのせいか秀吉は他の大名から養子を取ったり、人質として送られてきた大名の子どもをことさら可愛がったといいます。
そんな中、側室の茶々(後の淀君)がようやく妊娠をします。秀吉は狂喜乱舞し、周りの大名達もこぞってプレゼントを送ります。
秀吉は『棄て子は育つ』という言い伝えを元に『棄(捨)』という名前をつけました。しかし、生来病気勝ちなその子は2歳でこの世を去ります。
秀吉は『天下を手にしても、手にできないものはあるんだな・・・』と、泣いたそうです。
その数年後、秀吉57歳でまた茶々が子どもを産みます!
今度は秀吉自らの『厄』をその子に背負わせないように『一旦捨てて、それを拾った』ということにして「家臣が拾った子である!」という体裁を取るための回りくどい儀式を行ったのです。
この子は『拾丸』と名付けられ、すくすくと育ち、後の『豊臣秀頼』となりました!
秀吉は秀頼を溺愛し、ずっと気にかけ、死の間際に徳川家康を呼び『秀頼のこと、頼みましたぞ!頼みましたぞ!』と、必死に嘆願するエピソードがあります。
辞世の句は『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢(夢の中で夢を見ているかのような、なんとも儚い生涯だった)』
豊臣秀吉、享年61歳(数え62歳)
◆ 秀吉ゆかりの品「馬蘭の兜の価値は国1つ分?!」
(馬蘭の兜のイメージ)
有名な戦国武将の多くは特徴的な兜や鎧を持っています。秀吉の場合『馬蘭の兜』というのがあります。
この兜は手柄を立てた家臣に、ご褒美として渡したそうです。
戦国武将には、刀や鎧兜を『恩賞』として家臣にあげるのはよくある話ですが、信長がそうだったように、秀吉は『日本にはそのうち恩賞としてあげられる国(土地)がなくなる』と考えました。
戦争中なら刀や兜も出回りますが、この他に彼らが目をつけたのが『茶器』でした。
千利休らを召し抱え、金の茶室を作ったりと茶道に入れ込むと同時に、高価な茶道具を収集をし、
現在の金額に換算すると数億円というものもあり、秀吉曰く「スゴいものになると『国1つ』とか『日本の半分』の価値がある!」というものもあると云われています!
◆ まとめ
家臣のために痩せ我慢をしてみせたり、我が子のために必死になって手を尽くしてみたり。
秀吉は上の人からも下の人からも慕われ、「人たらし」と呼ばれたほどですが、秀吉ほど人間味あふれる武将もなかなかいないでしょう。
秀吉が天下人となったのは、まさにそういった人間性の部分が大きく影響していたことは間違いありません。