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【織田信長】(2)信長の天下人への道は苦難の連続!? 運をも味方につけた信長の秘策とは?

(黄金の信長像 岐阜県岐阜市 JR東海道本線岐阜駅北口広場)

桶狭間おけはざまの戦いで今川義元を破った信長。

この戦いの後から天下人となるために幾多の戦を繰り広げていきます。

しかし、その道は前途多難。朝倉・浅井、武田信玄などの錚々そうそうたる武将たちが立ちふさがりました。

いかにして、信長はこの武将たちを倒していったのか。

前回の記事では信長の生誕〜桶狭間おけはざまの戦いまでを見てきましたが、今回は信長が天下人となるところまでみていきましょう。

 

◆今日の味方は明日の敵? 美濃の戦いとのために浅井長政と同盟

(浅井長政とお市の像 滋賀県長浜市)

1565年の桶狭間おけはざまの戦いで今川義元を討ち取り、そして尾張を統一した信長。

実は桶狭間おけはざまの戦いの前後に、また別の問題を抱えていました。

それは美濃(現在の岐阜県南部)の戦国大名『斎藤道三』が長良川の戦いで戦死し、それまで美濃とは友好関係にありましたが、道三に変わって新しく当主となった斎藤義龍よしたつと対立するようになります。

しかし、義龍よしたつが突然病死をし、義龍の息子の龍興たつおきが当主となりました。

龍興たつおきは14歳という若さであったため、家臣の信頼を得ることができず、有力家臣の流出などもあり最終的には信長に敗退してしまいます。

この時、信長は北近江(現在の滋賀県長浜市付近)の戦国大名の浅井長政と同盟を組み、信長の妹の『お市』を長政に輿入れさせました。

お市と長政のエピソードはこちらの千姫の記事で触れておりますので、ぜひご覧ください。

信長は実の妹を婿入りさせた長政と後々戦うことになるとは、この時は思ってもいなかったことでしょう。

その後、信長は室町幕府第15代将軍に足利義昭を擁立するなどし、天下統一に向けて進めていきます。

◆信長絶体絶命!! 天下人道のり最大の困難『第一次信長包囲網』

(朝倉義景像 出典: Wikipedia)

尾張、美濃を治め天下統一を進めていく信長でしたが、そう上手くことは運んでいきません。

1570年、信長と対立していた越前国(現在の福井県北部)の戦国武将の朝倉義景よしかげとついに戦うことになります。

信長は越前国に進軍をし、戦いを優位に進めていきますが、ここで急展開が!

なんと浅井長政が信長を裏切り義景よしかげ側についたのです!

ここにきて戦況が一変し、信長は不利な状況に陥ってしまいます。

不利な戦況をすぐさまに感じた信長は、兵を京に引き返させ、一時撤退しました。

京ですぐさま戦力を整えた信長は徳川家康を要請し、再び兵を出します。

織田・徳川軍対朝倉・浅井軍の戦となりました。

しかし朝倉・浅井軍はそれまでとは一変、両者がうまく連携が取れなかったためか、あれよあれよという間に再び攻め込んできた信長に敗れ敗走します。

この戦は後に『姉川の戦い』と呼ばれました。

その後、信長と敵対していた畿内きない(京に近い山城国、河内国かわちのくに和泉国いずみのくに摂津国せっつのくに大和国やまとのくに)で活動していた三好三人衆(三好長逸ながやす、三好宗渭そうい岩成友通いわなりともみち)との戦になりますが、ここで信長に危機が訪れます。

多くの戦力をもつ石山本願寺(摂津国せっつのくににある浄土真宗の寺院)も信長に対して挙兵をしました。

ここから信長と宗教との戦いが続いていきます。

そして再び朝倉・浅井軍が攻め込んできて信長は窮地きゅうちに立たされました。

さらには、石山本願寺の要請で長島(三重県)で本願寺門徒が起こした一向一揆(長島一向一揆)も起き、信長は万事休すの状態になってしまいます。

このピンチを救ったのは室町幕府15代将軍の足利義昭です。

信長が義昭を通じて正親町おおぎまち天皇に和睦の依頼をしました。

正親町おおぎまち天皇はこれに応じ、なんとか信長は一命を取り留めることができたのです。

これが後に第一次信長包囲網と言われています。

◆信玄に攻め込まれ窮地に立つが、またしても信長の強運が!?

(比叡山延暦寺 滋賀県大津市)

第一次信長包囲網を切り抜けた後、信長は浅井長政の配下の磯野員昌かずまさを味方に引き込むことに成功し、1571年に佐和山城(現在の滋賀県彦根市)を得ました。

信長がこの佐和山城を手にした理由は、佐和山城が近江(現在の滋賀県)にあり、畿内きないと東国(主に関東地方)を結ぶ拠点として大変重要な場所であったからです。

そして越前にいる朝倉氏を討ち取るための準備でもありました。

また、信長は朝倉・浅井の味方をしていた比叡山ひえいざん延暦寺に攻め込みます。

当時の延暦寺は大変多くの僧兵がいることから、信長にとってとても脅威になる存在だったのです。

信長は、この比叡山ひえいざんを焼き討ちにし、僧兵だけでなく戦に関わりが薄い女性や子どもら数千人を殺してしまうという、信長の冷徹さが非常に表れている出来事となりました。

その後、信長は第一次信長包囲網から続いていた朝倉・浅井軍との戦いも有利に進めていきます。

しかし! ここで最強の敵が信長の前に現れました。

その最強の敵とは戦国最強の武将武田信玄です。

信玄は元々越後(現在の新潟県)の上杉家と対立をしており、その両者の調停を信長が足利義昭から命じられ行なっていました。

その最中、信玄は信長と共に戦っていた徳川氏の領地に事前通告も無しに攻め入りました。

この出来事などをきっかけに信長と義昭との関係は悪くなっていき、義昭は信玄の方に肩入れをするようになっていったのです。

その後、信玄義昭から信長を討ち取るように命じられ、ついに1573年に戦国最強武将と信長の戦いの火蓋が切られました。

はじめに武田軍が徳川軍を攻め込んだ時、信長は朝倉や浅井などに包囲網を引かれていたため、仲間の家康にあまり多くの援軍を送ることができませんでした。

それもあったせいか、家康信玄に対して防戦一方になり攻め込まれていきます。

武田軍は約3万〜4万ほどの軍勢に対して、徳川軍は約1〜2万ほどで、信長の援軍も3千人ほど(諸説あり)であったため、戦力の差は歴然でした。

家康信玄に対して連戦連敗で、三方ヶ原の戦いにおいては徳川・織田軍は武田軍に惨敗し、家康は大便を漏らしながら浜松城に逃げ帰ったという有名なお話もあります。

あの徳川家康をそこまで追い詰めるほど、武田信玄が戦国最強といわれた所以でもあるでしょう。

しかし、ここで戦況が一変する事件が起きます。

なんと、武田信玄が元々患っていた病により亡くなってしまったのです。

武田信玄の死因の謎に関してはこちらの記事で紹介おりますので、ぜひご覧ください。

武田軍は急遽甲斐国かいのくに(現在の山梨県)に引き返し、信長と家康はなんとか一命をとりとめました。

この出来事が後に第二次信長包囲網と呼ばれています。

◆ついに信長の反撃!! 室町幕府滅亡、朝倉・浅井、一向一揆討伐へ!

(織田信長像 清州公園 愛知県清須市) 

信玄との戦を運良く終わらせることができた信長は、足利義昭を室町幕府から追放させようとします。

義昭は信長を討伐する令をだすなど信長と対立をし、信玄に肩入れしているといったことなどから、信長が義昭を追放させようとするのは当然の考えでしょう。

しかし、信長は義昭に対してはじめに和睦わぼくの提案を行いました。

信長ははじめから戦で解決することを望んでいなかったと考えられますが、義昭はこれを拒否し、信長との対立は続くことになります。

さすがの信長も和睦わぼくを拒否されてしまったので、義昭を幕府から追放することに動き始めました。

1573年、信長はあっさりと義昭を追放することに成功し、この時に約235年間続いた『室町幕府』が終わったとされています。

義昭を追放した信長は、長年苦しめられていた朝倉・浅井討伐に動き始め、3万の軍勢を率いて近江に攻め込みます。

戦況は信長優位に進んで行き、さらには信長に勝てないと感じたのか、義景よしかげは一族の朝倉景鏡かげあきらに裏切られ、ついに義景よしかげは自害をしてしまいました。

義景よしかげの死後、信長の家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政に攻め込み、秀吉はついに浅井長政も自害に追い込みました。

長政の妻の信長の妹のお市、そして二人の間に生まれた3人の娘(茶々、初、江)は秀吉が城から救ったと言われています。

こうして信長は第一、第二次信長包囲網で苦しめられていた、朝倉・浅井の両者を討ち取ることに成功しました。

その後信長は朝倉・浅井同様に手を焼いていた、長島一向一揆の鎮圧にも動き始め、大軍を率いて伊勢長島の一向一揆に攻め込んで行きます。

城で籠城作戦を始めた長島門徒勢に対して、信長は城の周囲から焼き討ちをはじめ、約2万人の門徒らを全滅させました。

延暦寺焼き討ちの時と同様に信長が冷徹とも言われる所以の1つであり、特にこの対宗教に関しては特に厳しかったです。

◆『長篠の戦い』で武田最強の騎馬隊を火縄銃で返り討ちに! そしてついに『天下人』へ!

(長篠合戦図屏風 出典: Wikipedia)

第二次信長包囲網において、信長の仲間である徳川軍を叩きのめした武田信玄。

家康が討伐されるまであと少しのところでしたが、信玄の突然の病死によりなんとか生き延びることができました。

1575年、その武田軍と再び戦となります。

信玄の息子の武田勝頼が武田家の当主となってから、武田軍は再び、家康の本拠がある三河国を掌握しようと攻め込んで行きました。

武田軍の軍勢の数は、約1万5千人。

まず武田軍は家康がいる長篠城(現在の愛知県新城市)に攻め込みます。

当時長篠城には500ほどの軍勢しかおらず、圧倒的に武田軍の方が優勢でしたが、徳川軍は火縄銃などを使い抵抗し、武田軍は長篠城攻めあぐねていました。

そうしている間に、信長と家康の援軍が来て、勝頼討伐に動き始めます。

信長の援軍の軍勢は約3万人、徳川軍は約8千人だと言われております。

戦場である設楽原したらがはらに着いた信長は、丘陵地が連なっている設楽原したらがはらの地形を活かし、敵から自分たちが見えないように途切れ途切れに自軍を配置しました。

その戦法に気づかなかった武田軍は設楽原したらがはらに攻め込んだ後に信長軍に背後を取られ、武田最強の騎馬隊が信長率いる火縄銃を用いた鉄砲隊に一気に攻め込まれます。

武田軍の家臣の中には勝頼に撤退を進言した者もいたようですが、勝頼は後ろを見ずに攻め込むことをやめなかったようです。

勝頼が撤退をしなかった理由に関しては、こちらの記事に載っていますので、ぜひご覧下さい。

その後も信長軍の優位は変わらず、そして武田軍に圧勝しました。

この戦は後に長篠の戦い』と呼ばれるようになります。

長篠の戦いの後、信長は朝廷から『権大納言』『右近衛大将』を任官され、これで実質的に『天下人』になったとされています。

◆まとめ

桶狭間おけはざまの戦いの後〜長篠の戦いまでみてきましたがいかがでしたか。

連戦練磨の武将というイメージの信長でしたが、意外にもぎりぎりの戦いを繰り広げていることがわかりましたね。

特に宗教に対しては厳しかった信長。私は「宗教を信仰している人は結束力が強く、敵にするととても脅威になる」という説を聞いたことがありますが、もしかしたら信長もそのように感じていたから、ここまで冷徹なことをしたのかもしれません。

次回は信長の最後、『本能寺の変』までを迫っていきます。

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