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『武田信玄』の息子、武田家最後の男『武田勝頼』の生涯に迫る!!

戦国最強武士として名高い『武田信玄』の息子『武田勝頼かつより』。

実は跡取り候補ではなかったのだとか??

甲斐かい武田氏最後の当主『武田勝頼かつより』の生涯に迫ります!!

 

◆武田勝頼ってどんな人?

(出展 Wikipedia)

・生涯:1546年〜1582年(享年 37歳)

・父親は『武田信玄

信玄死後、甲斐かい武田家20代目当主となる

・『長篠ながしのの戦い』で織田、徳川軍に敗戦

・最後は天目山まで追い詰められ自害した

◆ 戦国最強『武田信玄』の息子は『日陰の子』だった??

 

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の奥に少年の姿がありました。

少年は妾腹(しょうふく)の4男。

家を継ぐ可能性どころか、館から出る事も稀な『日陰の子』であったそうです。

その少年があわびの煮貝を見て、

『このあわびはどこからきたのか?』

と、尋ねると、家臣は『海からです。』

少年『諏訪すわの湖(うみ)からか?』

家臣『いえ、諏訪よりはるか彼方に諏訪の湖よりも、もっと大きな『海』というものがございます。』

少年『海…』

この少年が後に甲斐かい武田家20代目当主となる『武田勝頼かつよりです。

勝頼かつよりの父である武田信玄と言えば、『甲斐かいの虎』と云われ風林火山ふうりんかざんを旗印に無敵!戦国最強! と言われた武田軍を率いる甲斐かい武田家19代目当主として活躍しました。

信玄は織田信長も恐れ、家康を震え上がらせた武将として名をせます。

しかしその信玄の幼名は太郎♪

名は晴信で、信玄というのは出家した後の名ですね。

そんな信玄率いる鉄の団結の武田軍ですが、一度大揉めをしたことがあります。

信玄は天文11年(1542年)6月に、諏訪すわ侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族を滅亡させました。

その時、信玄信濃しなの諏訪領主・諏訪頼重の娘(諏訪御料人すわごりょうにんと云われます)を側室にすると言い出したのです!

家臣は『恨みを残す』と猛反対しましたが、信玄は強引に進めてしまいます。

しかしこの女性、実名がはっきりしないのですが、この女性が産んだのが『四郎』

後の跡取り『武田勝頼かつよりです。

生まれは天文15年(1546年)と言われてます。

◆ 勝頼に「信」の字が無かったのは、跡取り候補じゃ無かったから?

(武田家家紋)

勝頼かつよりの他の兄として、長男の武田義信(1538年生まれ)、盲目で出家した次男竜芳りゅうほう(1541年生まれ)、早世した武田信之(1543年生まれ)がいて、四番目が四郎勝頼かつよりです。

五男以下が、仁科盛信にしなもりのぶ葛山信貞かつらやまのぶさだ、安田信清のぶきよなどとなっております。

勝頼かつよりの幼年期に関する資料がほとんど無く、武田家嫡男ちゃくなんの義信や次男・信親のぶちか(竜宝りゅうほう)に関する記事の多い『高白斎記こうはくさいき』においても、勝頼かつより幼少期や諏訪御料人すわごりょうにんに関する記事はほとんど見られず、乳母うば傅役もりやくなど幼年期の事情も不明です。

信玄勝頼かつよりの兄同様(自分で滅ぼしておいて)近隣の名家の跡を息子達に継がせることで、それらの家を傘下に取り込んでいきました。

勝頼かつよりは、これも信玄に滅ぼされた母方の諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である『頼』を名乗り『諏訪四郎勝頼かつよりとなるのです。

この『諏訪四郎勝頼かつより』という名前、一点気になる点があります。

勝頼かつよりは武田氏の通字である『信』を継承していないのです!

おそらく幼少期も改名してからも、勝頼かつよりは『跡取り候補』としては見なされていなかったのかもしれません・・・

1573年、都に進軍中に信玄が死亡しました。

病没、もしくは三方ヶ原での傷が元での戦死とも言われております。  

勝頼かつより信玄の死により家督を相続することになりました 。

ところが一説に『信玄は孫に家督を継がせ、勝頼かつよりにはそれまでの『後見人』を命じた』という伝承もあります。

◆知られざる武田勝頼ストーリー

(設楽したら原古戦場跡  「長篠の戦い」戦場 愛知県新城市)

この後、いくつかの戦に勝利する勝頼かつよりですが、事ある毎に父である信玄に『比べられた』ようで、勝頼かつよりの心中は平静をなくしていきます。

その後、有名な長篠ながしのの戦いがはじまります。

『武田の騎馬隊に対して、信長は柵を作り、鉄砲を三段構えにして、1列目がうち終わると2列目が撃ち、替わって3列目が撃つ頃には1列目は弾ごめを終えているので間断なく鉄砲の攻撃ができ、ついには武田の騎馬隊きばたいを破った』というのが『有名な史実』です。

しかし、勝頼かつよりは何も考えていなかったわけではありません。

柵や鉄砲の3列の陣形は見ればわかりますし、対抗策もあったはずです。

それでも、やはり勝頼かつより信玄の戦法を使って、信玄のように勝つ』ことが目的であったのでしょう。

哀れ、勝頼かつよりの戦法は無謀な特攻となって『無敵』と言われた騎馬隊と有能な家臣達を失ってしまったのでした。

◆まとめ

織田軍に破れた勝頼かつよりは、外交や縁組(政略結婚など)による同盟等に力を入れますが、ついに信長が総攻撃を開始します。

勝頼かつよりは天目山に追い詰められ、その人生に幕を閉じました。

歴史に『if』はないとは言いますが、

跡取りにならなければ、諏訪で母子仲良く暮らしていたのかもしれませんね。

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