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真田幸村の祖父である『真田幸隆』とは? 持ち前の『人徳』で真田家を繁栄させた幸隆の生涯に迫る! 

(出典: Wikipedia)

あの真田幸村の祖父である真田幸隆(ゆきたか)。

武田では『攻め弾正だんじょう』と言われるほどの猛者。

独自に築いた『人脈』で長年攻略出来なかった難敵を倒したとか?

『人徳』で戦国を生き抜いた真田幸隆ゆきたかの生涯に迫ります!

 

◆真田幸隆ってどんな人?

(出典: Wikipedia)

・生涯:1513年〜1574年(享年 62歳)

・出身地:信濃国(現在の長野県)

・武田二十四将にも数えられた武田家の武将で、真田の領主 

・『攻め弾正だんじょう』とあだ名されたが実は『智将』 

真田幸村の祖父

◆幸隆は戦に負けて人脈作り!? 人望とネットワークの人『真田幸隆』の人脈作りの始まりとは?

(真田家家紋 『真田六文銭』)

『日の本一の兵(つわもの)』ともいわれた真田幸村(信繁)のお父さんである『昌幸まさゆき』は、優れた作戦を立て『戦上手』な武将であり、それと同時に『表裏比興ひょうりひきょう(卑怯)の者』とも言われていました。

ではその昌幸まさゆきのお父さんとは一体誰なのか?

その人物こそが『真田幸隆ゆきたかです。

幸隆ゆきたかはなんと武田信玄に仕えていた猛将!

真田家は元々信濃(現在の長野県)の小豪族で、幸隆ゆきたかが活躍する以前から真田一門自体はあったようでしたが、この幸隆ゆきたかから真田家が史書に登場するため、一般的に真田と言えば幸隆ゆきたかからと認識されています。

信濃は当時、この真田家をはじめとする『国衆くにしゅう』という、その土地にずっと暮らしている小豪族同士の争いが続いていました。 

ここにある日、甲斐かい(現在の山梨県)を統一した武田信虎が攻めて来ました。

この信虎は、武田信玄の実の父で、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いでした 。

幸隆ゆきたかは信濃の海野(うんの)家らと共に武田を迎え撃った! 

ところがここで大敗北。主君である海野うんの家の城は落とされ、幸隆ゆきたかは逃亡。 

やむなく幸隆ゆきたかは上野(現在の群馬県)の長野業正なりまさの元に逃げ込み、時期を待つことになります。 

しかし、幸隆ゆきたかはただ待っていただけではなかったのです。 

ここで幸隆ゆきたか『人脈作り』に奔走します。 

人と会い、交流し、見極め、幸隆ゆきたかは独自のネットワークを作りだしていくのです。 

幸隆ゆきたかが地道に築いていった人脈が、実は『後々に』効いてくることになります。

◆人脈のおかげで武田家に仕えることができた!? 軍師としての幸隆の戦いぶりは?

1540年代ごろ、武田家ではある事件が起きました。 

武田信玄が実の父・信虎を追放し、武田家の当主となったのです。 

当主となった信玄は信濃国の諏訪氏を破り、信濃の統治に手をつけます。 

戦に勝った信玄の元には人が集まり出します。当主交代の際に、家臣団の再編成がされることは珍しくなく、幸隆ゆきたかもこれを狙って乗り出しました。 

この時にものを言ったのが幸隆ゆきたかが先に作っておいた人脈です!  諸説ありますが、幸隆ゆきたかは彼らに推薦をお願いをして、信玄に仕えることに成功したそうです。 

幸隆ゆきたか信玄の元、戦にも参戦しました。そしてこの時期にある手柄を立てます。 

この時は信濃国の望月氏を攻略したのですが、なんと「戦をせずに勝利」をしたのです。 

幸隆ゆきたか『調略』といって外交、説得、取引に寄る交渉で敵を自軍に引き込んでいきました。

つまりは1人も殺さずに戦に勝利をし、1円も損をせずその城の戦力を取り込んでしまったのです。

以前も大谷吉継の記事で載せましたが、これは『戦をして勝つより優れた勝利』とされました。

幸隆ゆきたかはその後も立て続けに3城を調略していきます 。

これは交渉と話術、何より頭がよくなくてはできないことですね。

ただ、幸隆ゆきたかは頭がよいだけではありません。

武田家には弾正だんじょうという官位を持つ武将が3人いました。

この中の1人が真田幸隆ゆきたかで、その指揮官振りから『攻め弾正だんじょうと言われていたようです。

いかに幸隆ゆきたかが勇猛であったことが伺えます。

◆真田幸隆のここがスゴい!  幸隆の『人徳』で難敵を攻略!

1550年に、『砥石(といし)崩れ』と呼ばれる戦がありました。

武田軍が砥石といし城という城を攻めた戦でしたが、城が攻めにくいこと、また相手軍の抵抗も激しく、さらには挟み撃ちにもされ武田軍が敗走するという戦でした。 

この戦で命を落とした武田兵は1000人とも言われ、信玄が指揮していた戦の中では1、2を争う大敗北といわれています。 

後に『砥石といし崩れ』といわれる戦でした。

以来、砥石といし城攻略は信玄の悩みの種となっていました。 

ただいたずらに時間が過ぎる中、ついに屈辱と苦悩の色濃い信玄が口を開きます。

『誰か砥石といし城を落とせる者はいないのか?』 

重い静寂の中『某が』と、名乗りをあげたのは真田幸隆ゆきたかでした 。

信玄が顔を和らげ『おお! やってくれるか? して兵はどれ程?』と身を乗り出すと 、

『畏れながら、兵はいりません。ただ金を少々・・・』

そう言って、次の日から幸隆ゆきたかは動きだしました。

実はこの砥石といし城付近は元々真田幸隆ゆきたかのいた領地の近くだったのです。

幸隆ゆきたかは付近の国衆達と親戚、姻戚等のつてをたどり、時に城の将兵にも手紙を出し、根気よく『人徳』を持って交渉を続けました。

結果、翌年に幸隆ゆきたかは約束通り、『諜略』、『内応』、『交渉』、そして『人徳』により『戦わずして』砥石といし城を攻略したのです。

この功績により、約12年振りに幸隆ゆきたかは故郷である領地を取り戻しました。

その後、幸隆ゆきたかは上杉との戦でも活躍し、敵である上杉謙信にも『我、弓とらば真田に劣らぬが、知謀には7日の遅れあり。真田がいる限り、信濃を征服することは簡単にはいかない』というような言葉を残しています。

幸隆ゆきたかは対上杉の前線を任されていましたが、5月19日に自らが調略した砥石といし城で、62歳で亡くなりました。

◆まとめ

真田の領地を取り戻し、当時は新参ながら多大な功績を築いた真田幸隆ゆきたか

彼が調略で一番大事にしたのは『真心』だったという。

心にやましいものがある人は『真心』を持って行動する人には敵わないものです。

幸隆ゆきたかにはそのような『1本の芯』があったのでした。

余談ではありますが、真田家の有名な旗印『六文銭』を考案したのは幸隆ゆきたかといわれています。

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