【明智光秀】2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公|波乱に満ちた生涯に迫る!
特集
2019.07.17
明智光秀といえば「本能寺の変」。
きっと多くの人が謀反人としての明智光秀を覚えていることかと思いますが、実際はどのような人物だったのでしょうか?
2020年には大河ドラマの「麒麟がくる」で主人公として描かれている明智光秀の知られざる素顔について迫りたいと思います。
目次
◆ 明智光秀ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地: 美濃国(現在の岐阜県)
・生涯: 1528年(?)〜1582年(享年53歳、あるいは54歳)* 諸説あります
・比叡山の焼き討ちで手柄を立て、近江国(滋賀県)5万石の大名となる
・丹波国(京都府・大阪府・兵庫県の一部)を平定
・本能寺の変を起こし信長、信忠親子を自害に追い込む
・山崎の戦いで秀吉に敗れて死去
◆ 信長を討った光秀の波乱に満ちた生涯とは?
『順逆二門無し、大道心源に徹す、五十五年の夢、覚め来て一元に帰す』
「たとえ信長を討つとも、順逆に問われるいわれはない。信長も自分も等しく武門である。武門の上に仰ぐのは帝のほかにない。その大道がわが心源にあることを知るものはやがて知るだろう。我が生涯五十五年の間ずっと見てきた夢も醒めてみれば世俗の毀誉褒貶に洩れず、ここに一元に帰す。」
この辞世の句を残したのが『日本最大の裏切り者』『日本版ブルータス』と言われた武将、明智光秀です。
「敵は本能寺にあり!」
そう言って戦国史上最もポピュラーなクーデターを起こした光秀は、信長を倒すという大事を成し遂げました!
明智光秀は今の岐阜県で生まれたと云われますが、残っている史料に寄れば光秀は美濃国を治めていた土岐氏の一族で、若い頃は土岐氏から美濃を奪って大名となった『斎藤道三』に支えていました。
しかし、斎藤家の内紛(息子の義龍の起こした反乱)によって、光秀は故郷を追われます。
その後、越前国(新潟県)の朝倉家、三河国(愛知県)の細川家などに仕え、ついに信長の家臣となったのです。
実は光秀、信長より年上で、思慮深く、信長は一目も二目も置いていたと云われます。
家臣であった浅井長政の裏切りで信長が最大のピンチを迎えた『金ヶ崎の戦い』では撤退線となった時に、秀吉と共に一番危険な殿を受け持ち、見事に信長を帰還させました。
その後、武田勝頼を討った「長篠の戦い」や一向宗の信徒が起こした「長島一向一揆」にも参加し、信長軍にあっても丹波(兵庫県)や畿内(京都周辺)を担当します。
しかし、ここである出来事が!
「四国は征服したら自分のものにしてよい!」
信長にそう約束を取り付けた長宗我部元親は四国を平定寸前でしたが、なんと信長はこの約束を翻したのです!
実はこの時に、元親と信長のパイプになっていたのが光秀でした。
光秀の家老、斎藤利三の妹が長宗我部元親の奥さんだったためです。
光秀はこの縁から長宗我部~織田家のラインを繋いでいたのでしたが、信長の『心変わり』で、四国は手放せ!との命令。
当然、元親はこれを拒否!
怒った信長は四国攻めを開始!四国に迫る大軍団!
このタイミングで起こったのがあの「本能寺の変」です。
天正10年(1582年)6月13日。
6月2日の本能寺の変を受け、備中高松城攻めから『大返し』してきた羽柴秀吉と、摂津国(大阪北部〜兵庫県南東部)と山城国(京都県の南半部)の境、山崎は天王山麓にて両者が激突!
これが世に言う『天王山の戦い』の一席です。
この合戦で敗れた光秀は勝竜寺城に逃げ込むものの、夜陰に乗じて城を脱出し、わずかな供回りと居城『坂本城』を目指す途中、今の京都伏見区に位置する小栗栖(おぐるす)の竹薮で落ち武者狩りの農民の槍に刺されてその生涯を終えます。
一時の栄華を築いた光秀は破れ、死の間際には、数名の家臣しか残っていませんでした。
◆ 知られざる明智光秀ストーリー「光秀の戦いから生まれた3つの故事成語」
この戦いの中からある3つの故事成語が生まれます。
『天王山』『三日天下』『洞ヶ峠(ほらがとうげ)』です。
天王山は、その名の通り光秀と秀吉の戦いの場所となった『天王山』。
天正10年(1582年)6月2日。
雨が降っていた午後の4時頃、戦に有利な場所取り、この場合天王山の取り合いから戦が始まりました。
軍師・黒田官兵衛の助言とも言われますが、秀吉陣営が天王山を占拠していたことが勝った決め手と云われています。
一説には「天王山の争奪が戦局に影響を与えた」どころか「天王山の争奪戦自体があったのか?」なんて説もありますが、そこは成語の話には『野暮』ってもんですね。
後に『この局面が〜〜の天王山』といったように、大事な勝敗を決する戦いを「天王山」と呼ばれるようになります。
ちなみに将棋では中央のマスを『天王山』と呼びます!
『戦略上の重要ポイント』という意味で、もちろん天王山から来てます。
もう1つは『三日天下』。
正確には光秀の天下は10日くらいですが、これも『単なる不粋な数字』ではありません。
『非常に短い』って意味ですね。
なら1日でもいいんじゃ?って疑問には家康が答えてます。
『天下の主になるには自分を知らしめなくてはならない。号令に1日、号令に追布し、入城なりに1日、開けて3日目にやっとおさまる』
つまり号令が行き届き、自分の内閣が認知され、天下の形が整う日程が最速で3日と考えられてたんです。だから三日天下を現代風に訳せば『内閣成立の翌日、総理辞任』みたいな感じですね。
そして最後が『洞ヶ峠(を決め込む)』。
筒井順慶は、光秀軍の中では勢力もあり、光秀とは個人的にも親しかった人物です。
しかし、秀吉側からも再三再四味方につくように誘われていました。
順慶は光秀に乞われ、洞ヶ峠まで出陣したんですが、戦況を見るばかりで、結局動きませんでした。
ここから『日和見を決め込む』ことを『洞ヶ峠を決め込む』なんて言ったりするようです。
今ではあまり使われなくなってしまいましたが、使い方をきちんと知ってると、会話自体が楽しいのがこういう故事成語なんですよね♫
◆ まとめ
本能寺の変を起こしてから、十分な軍勢を味方につけることができず秀吉に敗れた光秀ですが、戦国の世を生き残るための知略、そしてしたたかさを彼以上に兼ね備えていた人物はいないのではないでしょうか。