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『義』の武将、上杉謙信!越後の龍の知られざる生涯とは?!

(上杉謙信 甲冑)

ストイック武将No.1と言われた武将、上杉謙信とは?

毘沙門天びしゃもんてんの化身』『越後の龍』『軍神』といわれた謙信の生涯、素顔、そしてその意外な死因??

戦国武将として人気が高い『上杉謙信』の生涯に迫っていきたいと思います!!

 

◆上杉謙信ってどんな人?

(出展 Wikipedia)

・生涯:1530年〜1578年(享年 49歳)

・出身地:越後国(現在の新潟県)

・戦国時代において屈指の戦上手とされ、『軍神』『毘沙門天びしゃもんてん』『越後の龍』という異名がある

・正妻を持たず、子どもは全て養子であった

・大の『酒好き』としても有名

◆実は『上杉家』ではなかった!?『謙信』の波乱の少年期!!

当時、関東には『管領』という役職があり、この管領家が上杉家でした。

実はその上杉家で『謙信』は生まれてはいないのです。

上杉家に仕える『長尾家』に生まれた四男が謙信。幼名を虎千代といいます。

仕えるといっても謙信は当時の主君、上杉定実さださねの(義理の)おいという、比較的近い立場にありました。

ところが謙信のお父さん、長尾為景ためかげ上杉家に下克上(身分が下位のものが上位のものを政治的・軍事的に打倒して、上下関係を引っくり返してしまうこと)をします!

そして上杉家の当主達を討ち、定実さださね為景ためかげの言いなりとなるのです。

そんな下克上続きに嫌気が出たのか、もしくは父との仲違いのせいか謙信は寺に入り、ここで武芸や軍略を学びました。

しかし、父の為景ためかげが亡くなってしまう。

その葬儀の時、敵対勢力の動きを感じた謙信は、甲冑かっちゅうを着込み、剣を取って父の棺を守って葬儀を進めます。

当時の越後は内乱続きで、守護の地位争いや豪族の反乱が相次いでいる状況でした。

そんな中、元服げんぷく景虎(かげとら)と名乗った謙信は15歳で謀反むほんを鎮圧したのです。

その後、上杉家の『養子』となり19歳で家督を継ぎ上杉家当主となると、室町幕府将軍、足利義輝より越後守護を命じられました。

これにより名実共に越後国主となった上杉景虎かげとら(謙信)・・・でしたが反乱はまだ続く!

反乱がおさまったのは3年後、謙信はやっと越後統一を成し遂げました。

ただ、そんな謙信ですが子どもどころか、奥さんの記録が見つからないのです。

謙信には子どもがいなかったので養子を取ります。

また、創作の世界では『女性説』もある謙信ですが、近年の研究では奥さんらしき人がいたという説もあるといわれています。

◆『敵に塩を送る』の語源はここから始まった!!

天文23年(1554年)、武田信玄、北条氏康(うじやす)、今川義元による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれました。

これによりこの3者は強大な同盟軍団となったのです。

しかし! この6年後、今川義元が桶狭間おけはざまで織田信長に討たれてしまいました!

当時の信長はこの3者に比べれば『若造』でありましたが、やられてしまっては若造もへったくれもないです。

以後、弱体化した今川を信玄は『戦国の習いよ!』とばかりに同盟破棄し、今川領内に攻め入り、駿河を征服します。

これに怒った(当たり前ですが)今川氏真うじざね塩止めをしました。

塩止めとは文字通り塩の輸入経路を分断、閉鎖をする事です。

特に、内陸部の甲斐の国は駿河側から塩を輸入していた為、塩が入ってこなくなります。

当然全ての料理に塩が入らなくなるどころか、味噌も醤油も作れなくなるという状況になりました。

さらに重要なのは群衆心理というもので、この状態がいつまでも続くとなると・・・という考えは容易にパニックに繋がり、恐慌、反乱さえ誘発されるのです。

この窮地きゅうち敵である謙信が日本海側の塩を信玄に送った事が『敵に塩を送る』という言葉の語源となりました。

*最近の研究では謙信は塩を送ったのではなく、お抱えの商人を送り甲斐の国で高額で塩を販売したといわれています。

◆『戦の合図』はご飯のにおい??

ライバル武田信玄との合戦で有名な川中島の戦いは、実は5回もありました。

この戦いで謙信は川を突っ切って信玄の本陣まで攻め入り、信玄に向かって刀を振り下ろし、信玄はそれを軍配で受け止める!

敵わぬなら引くまでと、謙信は引き返し、武田軍の中を突っ走って帰陣したというエピソードが残っています。

謙信の大胆かつ勇猛さを語る話ですね。

この戦の時もそうでしたが、謙信は常に節約家で、普段の食事は質素そのものでした。

『食事調菜、二種を過ぐるべからず』

つまり「おかずは2種類まで!」ということで、肉類を口にせず、家臣に対して毅然とした態度で範を示していたのです。

しかし、戦の前『だけは違っていました。

謙信は戦の前には山のようにご飯を炊いて、家臣たちに振る舞ったのです。

家臣たちは喜び、謙信に感謝して戦で活躍したといわれています。

そのため上杉の家臣は謙信がご飯を炊き始めると戦だと気付く』とも言われたそうです。

この風習は今も新潟、山形に『立ち飯』として残っています。

◆『酒』に溺れ死んだ武将…??

質素なご飯、ストイックな生活、頭もよくて、出家もして人格者のイメージの謙信でしたが実は『これだけはやめられない!』というものもありました。

ズバリ『酒』です!

謙信の酒好きは有名で、しかも過度な塩分摂取もあったみたいで、さらには高血圧だったようでした。

何せ梅干しや味噌を肴(さかな)にぐいぐい呑んでいたらしく、これではもっと食事していた方がいいと思えるくらいです!

『越後の酒は極上なれば、余計なさかなは不要なり』と、塩を舐めながら馬の上で呑む為の『馬上杯』という、まるで優勝カップのような杯で行軍中に酒を呑んだといわれています。

もちろん体にいい訳がないので、41歳の頃、やはり脳卒中になりました。

一命は取り止めましたがその後も改善の傾向はなく、そしてある時いつものように大酒を呑んだ際に、トイレに行った謙信は白目を向いてぶっ倒れたのです!

・・・また脳卒中ですね。

享年49歳。死因は高血圧性脳内出血と思われます。

◆まとめ

他家の出身でありながら、上杉家の跡継ぎとなり川中島、手取川で無類の強さを見せた謙信。

『軍神』『毘沙門天びしゃもんてんの化身』『越後の龍』といわれ軍事、政策に長け、ストイックな人格者だったといわれていましたが、

そんな義の武将、謙信もお酒には敵わなかったようですね。

皆さん、健康管理には十分お気をつけて!

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