家康の孫姫、スーパープリンセス『千姫』! 徳川と織田の血を継ぐ『千姫』の魅力とは!?
特集
2020.04.11
家康の孫娘の『千姫』は、織田信長の血をも受け継ぐサラブレットな姫だった!?
『千姫』の美貌さを巡り、婚約者争いがあったとか??
織田と徳川の血を持ち、豊臣にも嫁いだスーパープリンセス『千姫』の生涯に迫っていきます!
目次
◆千姫ってどんな人?
(出典: Wikipedia)
・出身地:山城国(現在の京都府)
・生涯:1597年~1666年(享年 70歳)
・徳川2代将軍秀忠とお江の間に生まれた
・眉目秀麗であったといわれている
◆千姫のここがスゴイ! 『家康の孫姫、スーパープリンセスとして従兄弟と結婚』
(『伏見城』 千姫が生まれたとされる場所 京都府京都市伏見区)
千姫の父は第二代将軍徳川秀忠、母はお江の方、そして第三代将軍である家光の姉。
父の秀忠のお父さん、つまりお祖父さんが徳川家康。
母の江のお母さん、つまりお祖母さんがお市の方。
このお市さんは信長の妹!
つまり千姫は織田、徳川の血を受け継ぐ戦国のスーパープリンセス!
配偶者の豊臣秀頼は、千姫のお母さんである江の姉、茶々の子ですので『いとこ』という事になります!
いとこ結婚だったんですね♪
千姫は、慶長2年(1597年)5月26日、秀忠と江の長女として産まれ、その3年後には関ヶ原の戦いもあり、幼少期を時代の変革と共に過ごしていきました。
慶長8年(1603年)に7歳で結婚!豊臣秀頼に輿入れし、大阪城に入ります。
大阪城の女帝、淀君にとっては妹の子で、淀君も千姫のことを可愛がったようです。
千姫と秀頼は大変仲睦まじかった言われ、千姫が16歳のとき、女性の黒髪を揃える儀式『鬢削』(女性が成人に達したしるしに、耳側の髪の毛の先を切る儀式)を秀頼自ら行なったと記録に残っています。
ここまでは家康の執拗な豊臣イジリに我慢する豊臣家臣団が、なんとか『徳川、豊臣の仲は良好ですよ~』と取り次いでいたことで、2人は仲良く平和に成長していきました。
◆千姫が徳川と豊臣の板挟みに!?
(『大阪城』 大阪府大阪市中央区)
千姫と秀頼は仲睦まじく大阪城で暮らしていました。
しかし! 千姫と秀頼の平穏な生活に変化の兆しが。
慶長16年(1611年)3月28日、家康は二条城で秀頼と会見をします。
『この秀頼はいつか一角の武将になる!』
家康はこのように考え、戦国を生き抜いてきた直感に従い、豊臣を滅ぼすことを決意します。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣勃発。
そんな家康ですが、やはり孫娘は可愛かったようです。
慶長20年(1615年)、千姫が19歳の時、大坂の陣の最終戦『夏の陣』で、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出されます。
どのように千姫が救出されたかは今でも不明瞭な部分が多いですが、秀頼や淀君の決断、命令がなければありえないことから、やはり千姫は憎からず思われていたようです。
しかし千姫と秀頼の婚活は、そのまま家康の大阪城追い詰め作戦の期間で、家康の無理難題や言い掛かりの中、千姫にとっては針の筵(むしろ)だったと想像できます。
まあ、実家と嫁ぎ先がやり合っていましたので、さぞかし心中穏やかではなかったでしょう。
千姫は穏和な性格の持ち主と伝えられていますが、実際には豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される所を、千姫が体を張った必死の助命嘆願を行い、その結果、奈阿姫を救うという気丈なエピソードもあります。
奈阿姫は後に『縁切り寺』として有名な東慶寺の住職となったようです。
千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君で、殺伐とした戦国の時代の人と違い、思いやりのある女性だったようですが、祖母同様に政治や戦の為、何度も輿入れをする事になりました。
◆恋は盲目?? 千姫に恋をした武将の哀れな末路とは??
(『姫路城』 千姫が本多忠刻と暮らしていた城 兵庫県姫路市)
千姫の2人目の夫、本多忠刻(猛将・本多忠勝の孫、忠刻の母・熊姫は徳川家康と織田信長の孫で千姫の『形式上』従姉である)も眉目秀麗であったといわれ、美男美女夫婦で仲睦まじかったようです。
しかしその輿入れの時、津和野(現在の島根県)藩主の坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫強奪を計画。
直盛は自害し(もしくは家臣により殺害)、その一族は改易処分(武士の身分を剥奪する刑)となる、『千姫事件』がありました。
この『千姫事件』とは、『大坂城落城の際、千姫を救出した者と千姫を結婚させる』との家康の言葉を受けた直盛が、千姫を救出するも、結局本多忠刻と結婚することになったということから、直盛の襲撃計画はその約束を強引に果たそうとした事件です。
この話は長く信じられていたものですが、現在ではそもそも大坂城で直盛が千姫を救出した話自体が疑わしいともいわれています。
実際には堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けたという説が現在は有力です。
そんな美貌の千姫は、寛文6年(1666年)2月6日、70歳でこの世を去りました。
◆まとめ
戦国の波にもまれ、その少女時代を激動の中で過ごした千姫。
彼女は江戸初期において『女性を守る駆け込み寺』の後見人となります。
自分が味わった、女性ならではの苦難を受ける人が少しでも減るようにとの願いがあったのでしょうか。
その縁切り寺にはDVや貧困から逃げてきた女性を2年預かるシステムがあり、その
間は例え大名でも出が出せなかったそうです。
千姫が願い、求めたのは『女性の安心できる場所』だったのかもしれません。