徳川家、無敵の武将「本多忠勝」は生涯傷1つ負わなかった?!
特集
2020.02.13
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に、本多平八」
そう謳われた武将の名は、本田平八郎忠勝。
この忠勝、ただ者ではないと言いますが、なんと生涯にたった1つの傷も負わなかったのだとか⁉
名鑓『蜻蛉切(とんぼぎり)』を手にした徳川四天王の猛将『本多忠勝』の生涯に迫ります。
目次
◆本多忠勝ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地:三河国(愛知県東半部)
・生涯:1548年(天文17年)〜1610年(慶長15年)
・徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる家康の家臣
・天下三名槍の一つ「蜻蛉切」の持ち主
◆12歳で戦場に降り立ち生涯1つの傷も負わなかった
徳川四天王、徳川十六将に数えられ、無敵と云われた本多忠勝。幼い頃、父の忠高を失った忠勝は叔父の忠真(たださね)の元で育ちました。
そんな忠勝の初陣は13歳!
桶狭間の前哨戦とも云われる大高城出陣(兵糧入れ)でのこと。
戦に行くなら「元服もせねば!」ということで同時に元服を行って出陣。
数えの13歳のため満年齢だと12歳!現在であれば小学校6年生です!
出陣の形も『若殿様』と違い、本多家は家康に仕えるバリバリの前線司令官であるため敵も実際襲いかかってくる訳です。
その中でデビュー戦を飾った忠勝の『初首』は僅か1年後の島屋根城攻めでのこと。
叔父である忠真は『もはやこれまでか!』と、忠勝を呼びよせ『私の首を取って手柄とせよ!』と指示します。
自らの最後に我が子のように思っていた忠勝に、手柄を取らせようとしたのでしょう。
ところが!!
『我何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや (人の力を借りて武功を立てようとは思いません)』
忠勝はそう言って敵陣に踊り込むと見事敵将の首を取り、それを見た人々は『忠勝はただ者ではない!』と称賛しました。
また、一族の多くが一向衆であったため本多一族が一向一揆に参加し家康に敵対した時でも、忠勝だけは改宗し家康の元を離れずに戦い続け、19歳で旗本先手役(はたもとせんてやく)という『攻撃的親衛隊』ともいえる役目につきます。
以来常に家康の側にあり、幾度も戦に出て、何人もの武将を相手に戦いますが誰一人として忠勝に傷をつけることはできず、生涯57回の合戦を行って身体には傷1つなかったといわれています。
その勇猛振りから『家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(ヤクという動物の毛をあしらった兜)に本多平八』といわれました。
◆決戦!大太刀と名槍、伝説の一騎打ち!
そんな忠勝、姉川の合戦に参加した時のこと。
姉川の合戦は浅井・朝倉連合軍と織田・徳川軍が激突した戦いで、織田軍に対する与力として徳川軍は朝倉軍に面しました。
このとき朝倉軍には真柄十郎左衛門直隆(まがらじゅうろうざえもんなおたか)という猛将があり、越前の千代鶴国安作と云われる長さ五尺三寸(175cm)もの大太刀である『太郎太刀』を振り回し、徳川軍に猛攻をかけます!
直隆の猛攻に押され始めると、12段構えの徳川軍の8段までが抜かれました。
動揺する本陣に伝令が走り味方の不利を次々と報告する中、忠勝直属の伝令が家康の前に倒れこむようにひれ伏し『本多忠勝殿より伝令!真柄直隆、その勢い止まりません!故・・・』
家康達が息を飲む中、伝令が続ける
『・・・それ故、忠勝殿『儂(わし)が当たる』とのこと!』
ここに名槍『蜻蛉切』の本多忠勝と『太郎太刀』の真柄直隆の伝説の一騎討ちがあったといわれます。
決着には諸説あり、真偽の程はわかっていませんが、ここで真柄直隆は首を取られています。
◆忠勝のここがスゴい!「16万の軍勢に500で立ち向かった家康の守護神」
三方ヶ原の戦いでも左翼を担い、武田軍の猛将・山県昌景(やまがたまさかげ)を撃退し、伊賀越えにも同行し、小牧・長久手の戦いでは、家康のピンチに500ばかりの手勢で豊臣軍16万の前に立ち塞がります。
忠勝は川を隔てた対岸の豊臣軍の前に1人で進み出ると、馬に水を飲ませるなど余裕の態度を見せ、豊臣軍が動揺したその隙に家康は逃げ切ることができました。
16万の敵軍の前に1人で進み出た剛胆さに秀吉も感心し、追撃しようとした武将達を止め、逆に忠勝を称賛したといいます。
ただの戦闘狂なだけではなく、長篠の戦い等で武田軍、歴戦の猛者が亡くなったときには涙して『もう(彼らと)ワクワクするような戦はできないだろうな・・・』と、呟いたといいます。
常に、倒した死者を弔うため、数珠を掛けていたという側面も。
後に家康の関東移封に従い、忠勝は千葉の大多喜に移封されましが、関ヶ原の戦いでは家康本陣にあっても90もの首をあげたと云われます。
大鹿の角の脇立ての兜を被り、大数珠を肩掛け、名槍『蜻蛉切』を携えた忠勝は、まさに家康の『守護神』でした。
◆忠勝の持つ名鑓『蜻蛉切』は天下三名槍の1つ
(出典:Wikipedia)
本多忠勝のもつ『鑓(やり)』である『蜻蛉切』。
刃渡り43.8cm。笹穂型と呼ばれる大きな穂先の鑓で、全長は6mと伝えられる。
穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったことでその名がついたという逸話があります。
『天下三名槍』の1つとされ、茎には『藤原正真作』と銘が掘ってあり、正真はかの『村正』の子とも言われます!
もし本当なら、家康は『徳川に祟る(たたる)妖刀』と言われた村正をすぐ近くにおいていたことになりますね。
この蜻蛉切を持ち、鹿角の兜を被った忠勝の姿は、
『蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり(抜粋)』
と、川柳にもされたほどです。
後に、柄を90cmほど切って『鑓は自分の力に合うのが一番よい』と言ったという。
現在、静岡県沼津市の矢部家が所蔵しており、レプリカは岡崎城で見ることができます。
実は軽装を好み、動きやすさ重視だったという忠勝、鹿角の兜の鹿角の部分は『張り子』で、和紙に黒漆を塗って作ったものでした。倒した死者を弔う為、常に数珠を掛けていたといいます。
◆まとめ
信長さえ『花実兼備の武将』と褒め称え、秀吉は『日本第一、古今独歩の勇士』と称賛し、後に『東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西に立花宗茂という天下無双の大将がいる』と引き合いに出しました。
信長が『花実兼備の武将』と褒め称え、敵味方問わずこれほど称賛された武将も珍しいです。
戦い方もさることながら、本多忠勝という人は『生涯ブレてない』のが魅力なのでしょうね。