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【織田信長】(1)『天下統一』を目指した武将は大の『甘党』?? また伝説の奇襲作戦とは?! 実は『うつけもの』だった??

(若き日の織田信長像 岐阜公園 岐阜県岐阜市)

日本で最も有名な武将の一人といえば『織田信長』ですよね。

『天下統一』に向け様々な戦で勝ち抜いていく様は、みなさんもご存知かと思います。

しかし、そんな信長ですが幼少期から『うつけもの』といわれるほど、変わった存在であったようです。

また怖いイメージがある信長ですが、実は大の甘党であったとか??

今回はそんな信長の幼少期〜尾張おわり国を統一するところまでを、好きな食べ物の話や弟との戦にふれながら迫っていきます。

 

◆信長の生い立ちは?幼少期の頃から信長は信長だった??

(織田信長像 出典:Wikipedia)

室町時代も終わりに近づいている1534年、『織田信長』尾張おわり国(現在の愛知県)で生まれます。

父親は織田信秀といい、尾張おわりの戦国大名であり、信長は信秀の嫡男ちゃくなん(正室せいしつの産んだ最初の男子)として生まれたのです。

嫡男ですので、信秀の正当な後継者として育つのかと思いきや、信長が幼少期〜青年期ぐらいに尾張おわりの大うつけ』と呼ばれるほど奇行を多くしていました。

なぜうつけもの(常識を外れた人物)と周囲から言われていたのかというと、格好は湯帷子(ゆかたびら)という普段は入浴時に着るものを普段着として着ていることや、まげを結わずに派手な糸で髪を巻き上げているといった、普通の人がやらないであろうことをしていたからです。

また、格好だけでなく行動の面からも奇行が多く、街中で柿やうりをかじりながら歩いていたり、寺で学問を習う際も真面目に話を聞かなかったり、武士の息子らしからぬ行動が目立ちました。

極め付けは、父信秀が急死した際の葬儀のときのお話です。

信長は喪主もしゅでもあるのにも関わらず葬儀に遅刻をし、さらにはなんと父の位牌いはい焼香しょうこうを投げつけたのです。

このことは、葬儀に出席していた近隣の大名たちの間でも噂になりました。

これらのことから、信長がうつけものとして周囲から思われるのが分かりますよね。

しかし、この周りに左右されない性格が今後の彼の活躍の理由となるのです。

◆『天下統一』の前に『尾張統一』!!そのためには弟の命も…!?

(織田信長 甲冑)

織田信長が生まれた尾張おわり国は織田家が中心でしたが、統一はされておらず、親戚同士で派閥争いなどをしている状態でした。

その織田家のなかでも信長の父の信秀は、室町幕府や朝廷との関係がよく、その外交力を生かし尾張おわり国内で勢力を強めていきます。

しかし、尾張統一が目前と迫った中、信秀は42歳で急死してしまうのです。

うつけものとして生きていた信長でしたが、父の死を受け19歳の時に急遽家督かとく(相続すべき家の跡目)を継ぐことになります。

信長は『天下統一』の前に尾張おわり統一』を目指すことになるのです。

しかし、前述の通り信長はうつけものとして見られていて、周りからの求心力が低かったため、父のような外交力は持ち合わせていませんでした。

そのため、信長は戦で結果をだすことでしか、周りからの信頼を得る方法が無かったのです。

ここから尾張おわり統一に向けて1552年〜1565年の間、様々な戦を繰り広げていきます。

そのなかでも弟の信勝との戦が印象的です。

信勝は両親にも可愛がられ、信長のように『うつけもの』ではなかったため、周りからの評判は大変いいものでした。

父の死を受けて、周りからの信頼もあり、信勝は織田家の当主になるため信長と同様に尾張おわり統一を目指します。

しかし、信勝は周囲の印象はよかったのですが、信長と比較すると戦や交渉事が上手ではなく、戦上手の信長に徐々に周りがついていくようになるのです。

信勝は信長を倒すことでしか尾張を統一できないと判断し、ついに信長と対峙します。

結果は惨敗に終わり、最終的に信長によって謀殺ぼうさつされました。

その後も信長は戦を繰り広げていき、ついに1565年に尾張おわり統一』を果たしました。

◆信長は実は甘党であり、また味噌好きだった??

(干し柿)

ここでいったん、信長の『食生活』をみてみましょう。

信長は実は大の甘党であったといわれており、干し柿や金平糖を好んでいたようです。

特に干し柿は大好物で、功績をあげた家臣に干し柿をあげることもしばしばあり、また父(家臣)を戦でなくした子どもに干し柿をあげて大喜びをしたという話もあります。

ご飯に関しては、『湯漬け』というものをよく食べており、『湯漬け』とは冷や飯にお湯をかけて食べるもので、短時間で食事を終わらせたいという信長の心情なのかなと思いました。

また『焼き味噌』も好んでおり、特にねぎを混ぜて焼いた焼き味噌を好んでいたようです。

味噌は戦においての携帯食にもなり、塩分もあるので疲労回復にも効果があります。そのことを信長が考えていたかは分からないですが、戦を勝ち抜いていった源かもしれませんね。

『焼き味噌」を用いた郷土料理といえば、長野県伊那市の『行者ぎょうじゃそば』や、青森県津軽地方及び下北地方を中心に伝わっている『貝味噌焼き』などがあります。

みなさんも是非、信長が愛した『焼き味噌』を用いた料理を食べてみてはいかがでしょうか。

◆3千人の軍で2万5千人の軍を倒した?!『桶狭間の戦い』!!

(織田信長像と今川義元像 桶狭間古戦場公園 愛知県名古屋市)

信長が尾張おわり統一に向け内戦をしているなか、これをいいことに隣国から攻め込まれてしまうのです。

駿河するが国(現在の静岡県)の戦国大名『今川義元』が尾張を支配するために、信長の父信秀の死後から尾張おわりに攻め込んでいきます。

義元は織田家の内紛の最中に4城を落とし、尾張おわりを侵略していきました。

信長も対抗したりしますが、信秀の死後はまだ信長自身に信用がない「うつけもの」でもあり、さらには尾張おわり統一も進めていたため、すぐに義元討伐には動けなかったのです。

1560年、ついに今川義元は約2万5000人(諸説あり)の大軍を自ら率いて尾張おわり征圧に向けて出陣します。

対する信長の軍勢は約3000人といわれており、圧倒的数的不利であることが伺えますね。

義元が攻め込んでくる情報を聞いた信長は清洲城(きよすじょう、現在の愛知県清須市)での籠城ろうじょう作戦(城に立てこもって敵を防ぐ作戦)を試みますが、他場所(丸根峠、鷲津砦わしづとりで)が攻撃をされたとの情報を聞き作戦を変更します。

丸根峠、鷲津砦わしづとりでともに300〜500人程度の少数の軍勢で織田軍は対抗しましたが、あえなく陥落しました。

また義元の前線部隊に対して300人程度の軍を派遣しましたが、こちらも敗れてしまいます。

しかし、この少数の軍で攻めたことには、信長の狙いがあったのです。

敵の軍勢があまりにも多いため、それを分散させるため、少数で攻め込み兵力を小さくすることを試みました。

その結果、義元を中心とした部隊は5000人ほどになり、信長の軍勢が2000人くらいでしたので、数的不利ではありますが何とか戦える状態までもっていきました。

また、義元は信長の軍勢が少ないと思い、少し油断したとも言われています。

ついに、信長は今川義元本陣に攻め込むことになるのですが、ここで奇跡が起こりました

天気が急変し、目の前の視界がとても悪くなるほどの豪雨が降ってきたのです。ひょうも降ったと言われております。

この天気を利用して、信長は兵を進め、そして奇襲をしかけ一気に義元に攻め込んでいきます。

雨が止んだときには今川軍は織田軍に攻め込まれ、ついに合戦となるのです。

奇襲をしかけられた今川軍は次々に兵を失い、義元は信長と共に戦っていた毛利義勝によって首を取られました。

義元の首をとられたことにより、今川軍の戦意は喪失をし、最終的に織田軍の勝利となります。

この圧倒的数的不利な状況で、信長が勝利したこの戦が桶狭間おけはざまの戦い』です。

桶狭間の戦いに勝利をしたことによって、さらに周囲の信頼を集め『尾張おわり統一』に向け進めていきました。

◆まとめ

信長の「幼少期〜尾張おわり統一」のところまでをみてきましたがいかかでしたか?

うつけものであったからこそ、柔軟な発想を持つことができ、「尾張おわり統一」ができたのかと思います。

そんな信長ですが、大の甘党というところにも人間味があり、そういった部分が人気のある要因なのかなと思いました。

次回は尾張おわり統一後、『天下統一』を進めていくところに迫っていきます。

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