勇猛果敢で有名な加藤清正は、誰よりも忠に厚い武将だった。
特集
2019.07.17
加藤清正は幼少期から秀吉に仕えると、各地の戦で武功を上げ、肥後の大名として活躍を収めました。
名古屋城の天守閣や熊本城を築城したことで知られる清正は、生まれた日と亡くなった日が同じ6月24日といった珍しい特徴を持つことでも知られていますがその生涯は果たしてどのようなものだったのでしょうか?
目次
◆加藤清正ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地: 尾張国愛知郡(現在の愛知県名古屋市)
・生涯: 1562年〜1611年(享年 50歳)
・小姓(雑用係)として秀吉に仕える
・賊が岳の七本槍の1人に数えられた勇猛な武将
・朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で活躍
・熊本城を築城し肥後北半国の大名となる
◆荒くれ者の加藤清正も老母にだけは敵わなかった
元々平民上がりの秀吉は自分の家臣がいなかったため、甥やいとこの子や親戚の子を取り立てていきました。
その中の1人で、嫁さんのいとこの子がやっていた鍛冶屋(一応武士の子)の息子が清正。幼名『虎之助』。
一般に『荒々しい』イメージの清正。清正の逸話には、片鎌槍を手に、厳めしい武者ヒゲで、朝鮮半島で虎を退治したエピソードがあります。舞台や役者の扮装にも揉み上げを乱した荒々しい感じの『清正風』と呼ばれるスタイルが存在するほどです。
その一方、清正は秀吉の正妻、ねねさんに可愛がられ、成人しても北政所を『おふくろ殿』と慕った『母想い』の武将です。お座敷遊びの『虎拳』が加藤清正は虎に勝てるが老婆(お母さん)には敵わないというのは清正がねねには敵わない様子を表しているからみたいですね。
『対立図は女性相関図を見るとわかる』という風に考えると、関ヶ原の戦いで清正は東軍、つまり家康についたのではなく、家康派だった北政所(ねね)についただけとも言えるかもしれません。
◆清正のここがスゴイ「自宅謹慎を破って秀吉のピンチに駆け付けた!」
1596年京都・大坂あたりで大地震があり、豊臣秀吉の居城・伏見城などが倒潰してしまいます。
当時の秀吉は栄華を極めましたが、そんな秀吉の唯一の心配は『老い』でした。
晩年の秀吉に、若い時分の様な体の効きや『小兵独特のしぶとさ』はなく、後継者である秀頼の周囲を固める武将達にさえ、疑心暗鬼になる事もあったそうです。
そんな折の地震!
この時、秀吉がとった行動は、なんと『女装して城内の一郭に隠れた』という奇行でした!
実は「誰が真っ先に駆け付けるか、誰が一番の忠義者かを見てやろう!」という大バクチだったようです。
忠義を旨とした江戸時代以降の武士と違い、身内とも騙し合い、下克上を繰り返す戦国時代。
成り上がりの代名詞の様な秀吉にとって信じられる者の見極めは、悲しくも『自らやらなければならないこと』だったのかもしれません。
そこへ駆けつけたのは、閉門謹慎(外出禁止)の身にあった加藤清正でした。
秀吉はその時『大事なこと』を思い出したようです。
その翌年、清正は『地震加藤』のあだ名と共に、戦線に復帰しました。
後に肥後熊本を治め『清正公』さんと親しまれた清正。
築城の名人と言われた清正。
平時でも米や味噌といった非常食を腰にぶら下げ『重かろうが、わしが自らやるから、下の者はやるようになるものだ!』と、何事も率先してやる清正。
戦って、建築して、政治して、補佐して、指示して、また戦して。
清正公は偉かった~!
◆まとめ
清正が熊本にいたのは15年ほどですが、忠に厚く、民への思いやりもあった清正ですから、彼が今も「清正公さん」と呼ばれ親しまれているのも頷けます。