【源頼朝】鎌倉幕府の設立者。その生涯とは? 平家との争いの決着は? あの義経との結末は?
特集
2020.02.15
(源頼朝像 源氏山公園)
源頼朝というと「源義経の兄」、「鎌倉幕府」などといったイメージを持たれると思います。
もちろんその通りなのですが、彼の一番優れていたところは、
初の「武家政権」を築いたことです。
「武家政権」とは、今回の頼朝や江戸幕府を築く徳川家康など、「武士」が政治の実権を握っていることをいいます。
「武家政権」以前は、天皇などが政治を行う「親政」、摂政関白などの要職を独占した藤原氏が行なった「摂関政治」など、それまでの政治は「皇族」や「公家」が行うものでした。
頼朝が初めて築いたこの「武家政権」は、江戸幕府の終末までの約700年間続くことになります。
親の仇である「平清盛」、そして弟の「源義経」を倒し「鎌倉幕府」の設立をしていきました。
それでは源頼朝の生涯に迫っていきたいと思います。
目次
◆大きな心の傷を負った幼少期
(源頼朝 出典:Wikipedia)
源頼朝は1143年、源義朝の3男として尾張国(現在の愛知県)で生まれます。
頼朝が生まれた当時は、天皇などが政治を行なっており、武士にはまだ強い権力はない時代でした。
しかし、荘園制度などによって武士(農民)は苦しみ、朝廷に対しての不満が積み重なり、徐々に朝廷への不信感が強くなっていきます。
頼朝の一族でもある「源氏」、後に頼朝の最大の敵になる「平清盛」の一族である「平家」、この2つの一族は当時を代表する武士の勢力でした。
そのような中、皇族同士が争うことになり、その争いに源平などの武士たちも便乗し、ついに戦いとなりました。こちらが「保元の乱」です。
頼朝の父である義朝はこの戦で武将として活躍をし、後白河天皇方として軍を率いて、平清盛とともに活躍しました。
しかし、1159年に起きた「平治の乱」で、平清盛と反することになり、戦に敗れ父義朝は長田忠到に謀殺されてしまいます。
その後、源氏の勢力は弱くなり、「平家」が勢力を拡大していきました。
この戦が後の「源平」の憎き争いを生むきっかけとなります。
頼朝も捕らえられ、処刑される予定でしたが、平清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)などによる助命の嘆願により、処刑は避けられ伊豆に流されることになります。まだ頼朝が幼かったことなども考慮されたようです。
「伊豆」や他の場所でいうと「隠岐」などに流されることを「流罪」といいますが、この「流罪」は死刑に次いで重く(当時は死刑が廃止されていたので一番思い罪という説も)、何もない辺境地にとばされ一人で生きていくという「生き地獄」の刑でした。
しかし、この判断が後の平家を終わらせる誤った判断となってしまうとは、この時は思ってもいなかったことでしょう。
伊豆に流された際の資料の数は少ないのですが、頼朝は監視下にあったものの比較的自由に暮らせたと云われています。
約20年間、頼朝は伊豆にて流人生活をし、その間に頼朝を監視していた北条時政の娘「政子」と結婚をすることになります。この婚約者が、後の鎌倉幕府においての執権政治でおなじみの「北条政子」です。
◆「平氏討伐」へ出陣
(富士川)
頼朝が伊豆で生活を送るなか、「平清盛」を中心とした平家が政治の実権を握り、平家がこの時代全盛期を迎えます。
そのような中、伊豆で流人生活をしていた頼朝ですが、そこに後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)から「平家討伐」の令旨(天皇や皇族などの命令を伝える文書)が届きました。
以仁王は父親である後白河法皇が平清盛のクーデターにより幽閉(牢屋などの一室に閉じ込めること)され、そこで源頼政の勧めに従い全国の源氏に令旨をだすことになったのです。
以仁王は平家に恨みのある源氏とともに、父の後白河法皇を助け出すことを試みます。
最終的に、以仁王の挙兵は失敗に終わったのですが、頼朝や木曽義仲(頼朝のいとこ)が挙兵をし、平氏討伐のきっかけとなりました。
ここから源平の戦いが再び幕を開け、頼朝は父の敵討ち「平家討伐」を開始するのです。
1180年、頼朝は挙兵をしましたが、天候不良で援軍が駆けつけられないというトラブルもあり、緒戦である「石橋山の戦い」は敗戦に終わってしまいます。
しかし、頼朝もただでは終わりません。再び北条時政と合流し、さらに兵力を強化するために三浦義澄(みうらよしずみ)や上総広常(かずさひろつね)などに協力を求め、得ることができました。
さらには「東国の武士」たちの協力も得て、ついに「鎌倉」に入ります。その時、数万騎の大軍であったと云われています。
「東国の武士」とは、当時政治の中心は京都にあったので、京都から東国にある「関東」近辺の武士たちのことをいいます。
「東国の武士」は死すら恐れない豪遊な武士ともいわれ、西国(京都を中心とした)の人からは野蛮な武士たちと思われていたのです。
そのような野蛮な武士たちを頼朝は、「土地の所有権およびまたそこから発生する様々な権利の保証」をする代わりに、その保証の代わりに自分のために戦で命がげで戦ってくれ、という関係を結び協力を得ることになりました。
これがあの有名な「御恩」と「奉公」の関係です。
そして頼朝は、後にこの土地で「鎌倉幕府」を築くことになります。
鎌倉に入ったあと、再び頼朝は挙兵をし、武田信義らとともに平家討伐を再開させ駿河(現在の静岡県)に進軍しました。頼朝は鎌倉で兵力を蓄えていたので、数万騎の大軍で平家に挑むことになるのです。
対する平家側は、数千の軍しかいなかったため、戦前から戦意喪失状態になってしまいました。そのため脱走兵があとを立たず、4千騎あまりあった軍は半分の2千騎ほどになってしまいました。
そのため、小競り合いがあるぐらいで、頼朝はほとんど戦をせずに勝利します。
こちらが後にいわれる「富士川の戦い」です。
この勝利後、異母兄弟の「源義経」と合流をします。
頼朝は、平家討伐を進める前に鎌倉を中心とした「関東」の地盤固めを進めていきます。
頼朝は政治家としても手腕を発揮し、現代に例えると軍事・警察をになう「侍所」、裁判所を担う「問注所」を設立しました。「武家政権」の土台作りを始めたと考えることができます。
◆頼朝の一番の脅威は妻「政子」!?
(源頼朝北条政子像 静岡県伊豆の国市 蛭ヶ小島公園)
ここで一旦、頼朝と政子の関係について触れてみましょう。
数々の戦を戦い抜いてきた頼朝ですが、妻「政子」に対してはおそれていたのでは、と云われています。
逸話の一つとして、頼朝が政子が妊娠中に浮気をしていた際に復讐劇があります。
頼朝は政子が妊娠するたびに浮気をする男であったようです。
ついに頼朝の浮気の話を聞きつけた政子は、頼朝が浮気相手を住まわせていた屋敷を襲撃し、破壊しました。
妊娠中であったのにも関わらず、このようなことをする政子に対して、さぞ頼朝はおそれたかと考えることができます。
ほかにも、政子は頼朝に対して強気で接する逸話が残っており、2人の関係性が伺えます。
◆ついに平家滅亡!!そして「鎌倉幕府」の設立
(鎌倉大仏 鎌倉大仏殿高徳院)
頼朝が関東で地盤を固めている最中の1181年、頼朝の一番の敵である「平清盛」が病死してしまったのです。
頼朝は平家討伐という一番の目的を失ったことで、戦をする意味が無くなったため平家側に和睦交渉(争いをやめて仲直りをするための交渉)をします。
しかし、平家側はこの和睦を受け入れず、再び頼朝ら源氏は平家討伐に動くこととなるのです。
木曽義仲は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平家をさらに西国に追いやる(京都より以西。都を追い出されている様子が伺えること)など、平家をさらに弱体化させます。
頼朝は平氏討伐という目的は変わらないのですが、徐々に木曽義仲、義経という「源氏の身内と対立」をするようになっていきました。
幼少期に父親を失った心の傷なのか、頼朝が他人に対して「疑り深い」ともいわれており、その疑り深さは「身内」にも及ぼすのです。
そして「平家」だけでなく身内の「源氏」とも争いを繰り広げていきます。
義仲は倶利伽羅峠の戦いの後、京都に行くことになりますが、後白河法皇と対立することになります。そこで、後白河法皇側の頼朝と対立することになり、頼朝は義経の軍を派遣し、「粟津の戦い」で義仲を討つこととなるのです。
義仲を討ったあと頼朝は軍を整備し「屋島の戦い」、そして1985年の「壇ノ浦の戦い」でついに平氏を滅亡させることとなります。
平氏を討伐させたことにより、頼朝の朝廷においての力も強くなり、「鎌倉幕府」設立に向け動き始めるのです。
◆弟「源義経」の死
(中尊寺金色堂 岩手県平泉町)
頼朝は異母弟の義経とも対立することになります。
義経は勝手に検非違使(けびいし)・左衛門尉(さえもんのじょう)の任官を受け頼朝から反感を買うなど、徐々に兄弟間の関係が悪くなっていきました。
そして、後白河法皇と義経が組み頼朝を倒そうと策略を企てます。しかし、この計画は失敗に終わり、義経は奥州藤原氏の元に逃げていく(岩手県平泉)のです。
ここで、頼朝の堪忍袋の緒が切れ、頼朝は弟「義経」討伐を始めました。
頼朝は、義経を匿っていた奥州藤原氏に義経を差し出すように圧力をかけます。
奥州藤原氏の中でも義経を匿うことに関して、意見が割れている状態でした。
結局、頼朝の圧力に屈して、当主である藤原泰衡が義経を自害に追い込むことになるのです。義経は1189年に自害したと云われています。
◆鎌倉幕府の設立、ついに「武家政権」のはじまり!!
(鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市)
1185年の壇ノ浦の戦いの後、頼朝は朝廷に対して全国に「守護」と「地頭」の設立をすることを求め、認められます。
「守護」は警察、「地頭」は荘園からの税収をするための機関として設けられました。
現代の教科書などでは、前述の侍所、問注所に合わせてこれらが設立されたので、
1185年を「鎌倉幕府」の成立とされているようです。
1192年に朝廷から頼朝は征夷大将軍を任ぜられ、政治の実験を握ることになります。
このようにしてそれまで続いていた「皇族政治」が終わり、約700年間続く「武家政権」が始まったのです。
頼朝は1199年に急死されたとされています。死因は諸説あり落馬説や糖尿病説など様々な説があります。享年53歳でした。
◆まとめ
源頼朝の生涯を振り返ってきましたが、いかがでしたか。
現代の警察や裁判所といったシステム作りを進めていった、知的な武将であることが伺えます。
そして次々に戦を仕掛けず、地盤をしっかりと築いてから戦をしかけるという「用心深い性格」であったのかと考えられます。
権力を握るには身内をも蹴落としていかなければいけない、頼朝はそれができる武将であったと思いました。