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【源頼朝】鎌倉幕府の設立者。その生涯とは? 平家との争いの決着は? あの義経との結末は?

(源頼朝像 源氏山公園)

頼朝よりともというと義経よしつねの兄」「鎌倉幕府」などといったイメージを持たれると思います。

もちろんその通りなのですが、彼の一番優れていたところは、

初の武家ぶけ政権」を築いたことです。

武家ぶけ政権」とは、今回の頼朝よりともや江戸幕府を築く徳川家康など、「武士」が政治の実権を握っていることをいいます。

武家ぶけ政権」以前は、天皇などが政治を行う「親政」、摂政関白せっしょうかんぱくなどの要職を独占した藤原氏が行なった「摂関せっかん政治」など、それまでの政治は「皇族」や「公家」が行うものでした。

頼朝よりともが初めて築いたこの「武家政権」は、江戸幕府の終末までの約700年間続くことになります。

親の仇である平清盛たいらのきよもり、そして弟の「義経よしつね」を倒し「鎌倉幕府」の設立をしていきました。

それでは源頼朝よりともの生涯に迫っていきたいと思います。

 

◆大きな心の傷を負った幼少期

(源頼朝  出典:Wikipedia)

頼朝よりともは1143年、源義朝よしともの3男として尾張国おわりのくに(現在の愛知県)で生まれます。

頼朝よりともが生まれた当時は、天皇などが政治を行なっており、武士にはまだ強い権力はない時代でした。

しかし、荘園しょうえん制度などによって武士(農民)は苦しみ、朝廷ちょうていに対しての不満が積み重なり、徐々に朝廷ちょうていへの不信感が強くなっていきます。

頼朝よりともの一族でもある「源氏げんじ」、後に頼朝よりともの最大の敵になる「平清盛たいらのきよもり」の一族である「平家へいけ」、この2つの一族は当時を代表する武士の勢力でした。

そのような中、皇族同士が争うことになり、その争いに源平げんぺいなどの武士たちも便乗し、ついに戦いとなりました。こちらが保元ほうげんの乱」です。

頼朝よりともの父である義朝よしともはこの戦で武将として活躍をし、後白河ごしらかわ天皇方として軍を率いて、平清盛たいらのきよもりとともに活躍しました。

しかし、1159年に起きた「平治の乱」で、平清盛たいらのきよもりと反することになり、戦に敗れ父義朝よしとも長田忠到おさだただむね謀殺ぼうさつされてしまいます。

その後、源氏の勢力は弱くなり、「平家へいけ」が勢力を拡大していきました。

この戦が後の源平げんぺい」の憎き争いを生むきっかけとなります。

頼朝よりともも捕らえられ、処刑される予定でしたが、平清盛たいらのきよもりの継母の池禅尼(いけのぜんに)などによる助命の嘆願により、処刑は避けられ伊豆に流されることになります。まだ頼朝よりともが幼かったことなども考慮されたようです。

「伊豆」や他の場所でいうと「隠岐おき」などに流されることを「流罪るざい」といいますが、この「流罪」は死刑に次いで重く(当時は死刑が廃止されていたので一番思い罪という説も)、何もない辺境地にとばされ一人で生きていくという「生き地獄」の刑でした。

しかし、この判断が後の平家へいけを終わらせる誤った判断となってしまうとは、この時は思ってもいなかったことでしょう。

伊豆に流された際の資料の数は少ないのですが、頼朝よりともは監視下にあったものの比較的自由に暮らせたと云われています。

約20年間、頼朝よりともは伊豆にて流人生活をし、その間に頼朝よりともを監視していた北条時政の娘「政子」と結婚をすることになります。この婚約者が、後の鎌倉幕府においての執権政治しっけんせいじでおなじみの「北条政子」です。

◆「平氏討伐」へ出陣

(富士川)

頼朝よりともが伊豆で生活を送るなか、「平清盛たいらのきよもり」を中心とした平家へいけが政治の実権を握り、平家へいけがこの時代全盛期を迎えます。

そのような中、伊豆で流人るにん生活をしていた頼朝よりともですが、そこに後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)から「平家へいけ討伐」の令旨(天皇や皇族などの命令を伝える文書)が届きました。

以仁王もちひとおうは父親である後白河法皇が平清盛たいらのきよもりのクーデターにより幽閉ゆうへい(牢屋などの一室に閉じ込めること)され、そこで源頼政の勧めに従い全国の源氏に令旨りょうじをだすことになったのです。

以仁王もちひとおう平家へいけに恨みのある源氏とともに、父の後白河法皇を助け出すことを試みます。

最終的に、以仁王もちひとおうの挙兵は失敗に終わったのですが、頼朝よりとも木曽義仲きそよしなか(頼朝よりとものいとこ)が挙兵をし、平氏討伐のきっかけとなりました。

ここから源平の戦いが再び幕を開け、頼朝よりともは父の敵討ち「平家へいけ討伐」を開始するのです。

1180年、頼朝よりともは挙兵をしましたが、天候不良で援軍が駆けつけられないというトラブルもあり、緒戦である「石橋山の戦い」は敗戦に終わってしまいます。

しかし、頼朝よりとももただでは終わりません。再び北条時政と合流し、さらに兵力を強化するために三浦義澄(みうらよしずみ)や上総広常(かずさひろつね)などに協力を求め、得ることができました。

さらには「東国の武士」たちの協力も得て、ついに「鎌倉」に入ります。その時、数万騎の大軍であったと云われています。

「東国の武士」とは、当時政治の中心は京都にあったので、京都から東国にある「関東」近辺の武士たちのことをいいます。

「東国の武士」は死すら恐れない豪遊な武士ともいわれ、西国(京都を中心とした)の人からは野蛮やばんな武士たちと思われていたのです。

そのような野蛮やばんな武士たちを頼朝よりともは、「土地の所有権およびまたそこから発生する様々な権利の保証」をする代わりに、その保証の代わりに自分のために戦で命がげで戦ってくれ、という関係を結び協力を得ることになりました。

これがあの有名な御恩ごおん」と「奉公ほうこうの関係です。

そして頼朝よりともは、後にこの土地で「鎌倉幕府」を築くことになります。

鎌倉に入ったあと、再び頼朝よりともは挙兵をし、武田信義らとともに平家へいけ討伐を再開させ駿河するが(現在の静岡県)に進軍しました。頼朝よりともは鎌倉で兵力を蓄えていたので、数万騎の大軍で平家へいけに挑むことになるのです。

対する平家へいけ側は、数千の軍しかいなかったため、戦前から戦意喪失そうしつ状態になってしまいました。そのため脱走兵があとを立たず、4千騎あまりあった軍は半分の2千騎ほどになってしまいました。

そのため、小競り合いがあるぐらいで、頼朝よりともはほとんど戦をせずに勝利します。

こちらが後にいわれる「富士川の戦い」です。

この勝利後、異母兄弟の義経よしつねと合流をします。

頼朝よりともは、平家へいけ討伐を進める前に鎌倉を中心とした「関東」地盤固めを進めていきます。

頼朝よりともは政治家としても手腕を発揮し、現代に例えると軍事・警察をになう「侍所さむらいどころ」、裁判所を担う「問注所もんちゅうじょ」を設立しました。武家ぶけ政権」の土台作りを始めたと考えることができます。

◆頼朝の一番の脅威は妻「政子」!?

(源頼朝北条政子像 静岡県伊豆の国市 蛭ヶ小島ひるがこじま公園)

ここで一旦、頼朝よりともと政子の関係について触れてみましょう。

数々の戦を戦い抜いてきた頼朝よりともですが、妻「政子」に対してはおそれていたのでは、と云われています。

逸話の一つとして、頼朝よりともが政子が妊娠中に浮気をしていた際に復讐劇ふくしゅうげきがあります。

頼朝よりともは政子が妊娠するたびに浮気をする男であったようです。

ついに頼朝よりともの浮気の話を聞きつけた政子は、頼朝よりともが浮気相手を住まわせていた屋敷を襲撃しゅうげきし、破壊しました。

妊娠中であったのにも関わらず、このようなことをする政子に対して、さぞ頼朝よりともはおそれたかと考えることができます。

ほかにも、政子は頼朝よりともに対して強気で接する逸話が残っており、2人の関係性が伺えます。

◆ついに平家滅亡!!そして「鎌倉幕府」の設立

(鎌倉大仏  鎌倉大仏殿高徳院)

頼朝よりともが関東で地盤を固めている最中の1181年、頼朝よりともの一番の敵である平清盛たいらのきよもり」が病死してしまったのです。

頼朝よりとも平家へいけ討伐という一番の目的を失ったことで、戦をする意味が無くなったため平家へいけ側に和睦わぼく交渉(争いをやめて仲直りをするための交渉)をします。

しかし、平家へいけ側はこの和睦を受け入れず、再び頼朝よりとも源氏げんじ平家へいけ討伐に動くこととなるのです。

木曽義仲は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平家へいけをさらに西国に追いやる(京都より以西。都を追い出されている様子が伺えること)など、平家へいけをさらに弱体化させます。

頼朝よりとも平氏へいし討伐という目的は変わらないのですが、徐々に木曽義仲、義経よしつねという源氏げんじの身内と対立」をするようになっていきました。

幼少期に父親を失った心の傷なのか、頼朝よりともが他人に対して「疑り深い」ともいわれており、その疑り深さは「身内」にも及ぼすのです。

そして「平家へいけ」だけでなく身内の「源氏げんじ」とも争いを繰り広げていきます。

義仲は倶利伽羅峠くりからとうげの戦いの後、京都に行くことになりますが、後白河法皇と対立することになります。そこで、後白河法皇側の頼朝よりともと対立することになり、頼朝よりとも義経よしつねの軍を派遣し、「粟津あわつの戦い」で義仲を討つこととなるのです。

義仲を討ったあと頼朝よりともは軍を整備し「屋島の戦い」、そして1985年の壇ノ浦だんのうらの戦い」でついに平氏へいしを滅亡させることとなります。

平氏へいしを討伐させたことにより、頼朝よりともの朝廷においての力も強くなり、「鎌倉幕府」設立に向け動き始めるのです。

◆弟「源義経」の死

(中尊寺金色堂  岩手県平泉町)

頼朝よりともは異母弟の義経よしつねとも対立することになります。

義経よしつね勝手に検非違使(けびいし)・左衛門尉(さえもんのじょう)の任官を受け頼朝よりともから反感を買うなど、徐々に兄弟間の関係が悪くなっていきました。

そして、後白河法皇と義経よしつねが組み頼朝よりともを倒そうと策略をくわだてます。しかし、この計画は失敗に終わり、義経よしつね奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの元に逃げていく(岩手県平泉)のです。

ここで、頼朝よりとも堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れ頼朝よりともは弟「義経よしつね」討伐を始めました。

頼朝よりともは、義経よしつねかくまっていた奥州藤原氏に義経よしつねを差し出すように圧力をかけます。

奥州藤原氏の中でも義経よしつねかくまうことに関して、意見が割れている状態でした。

結局、頼朝よりともの圧力に屈して、当主である藤原泰衡が義経よしつねを自害に追い込むことになるのです。義経よしつねは1189年に自害したと云われています。

◆鎌倉幕府の設立、ついに「武家政権」のはじまり!!

(鶴岡八幡宮 神奈川県鎌倉市)

1185年の壇ノ浦の戦いの後、頼朝よりともは朝廷に対して全国に「守護」地頭じとうの設立をすることを求め、認められます。

「守護」は警察、「地頭じとう」は荘園からの税収をするための機関として設けられました。

現代の教科書などでは、前述の侍所、問注所に合わせてこれらが設立されたので、

1185年を「鎌倉幕府」の成立とされているようです。

1192年に朝廷から頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんを任ぜられ、政治の実験を握ることになります。

このようにしてそれまで続いていた「皇族政治」が終わり、約700年間続く「武家ぶけ政権」が始まったのです。

頼朝よりともは1199年に急死されたとされています。死因は諸説あり落馬説や糖尿病説など様々な説があります。享年53歳でした。

◆まとめ

頼朝よりともの生涯を振り返ってきましたが、いかがでしたか。

現代の警察や裁判所といったシステム作りを進めていった、知的な武将であることが伺えます。

そして次々に戦を仕掛けず、地盤をしっかりと築いてから戦をしかけるという「用心深い性格」であったのかと考えられます。

権力を握るには身内をも蹴落としていかなければいけない、頼朝よりともはそれができる武将であったと思いました。

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