徳川家光のボディガードを務めていた隻眼の剣豪『柳生十兵衛』とは? 謎多き十兵衛のエピソードに迫る!!
特集
2020.05.09
『梟雄』と呼ばれた剣豪『柳生十兵衛』!
隻眼の剣豪と家光の関係とは? お父さんとの不仲説があるとか!?
柳生新陰流きっての剣士『柳生十兵衛』の謎にせまる!!
目次
◆柳生十兵衛ってどんな人??
・出身地:大和国(現在の奈良県)
・生涯:1607年〜1650年(享年 43歳)
・徳川家光の小姓を務めていた。
・江戸初期を代表する剣豪
・目は隻眼であった
◆『その男、虎なれば‥』 柳生十兵衛が『虎』と呼ばれた由来とは??
十兵衛がどこかへ行ってしまった。
その知らせを聞いた家光に呼びつけられ、ひとしきり問い詰められた後。
将軍剣術指南役、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は石臼を回したような声で釈明をした。
「あの者は虎なれば・・・」
苦虫を噛み潰したような顔は伏せたまま。
脳裏を隻眼の男が過る。
名を十兵衛という。
『家光を支えた三人』と言われたのが松平伊豆守と春日局、そして柳生宗矩。
その嫡男、つまり跡継ぎであり柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の達人で隻眼、つまり片目の剣豪、と言えば柳生十兵衛。
十兵衛は名刀・三池典太(みいけてんた)を手に、当時大変有名な剣士でした。
同じ隻眼の政宗が『独眼竜』と言われたのに対し、お父さんの言うことを聞かない十兵衛は、実の父に『虎』とも呼ばれています。
ちなみに『右目』に眼帯をしている政宗とは逆で、十兵衛の眼帯は『左目』でした。
将軍家指南役の長男がこの時代にお父さんどころか、将軍の言うことを聞かないというのはとんでもないことだったのですが、そこが柳生十兵衛らしいところですね。
◆『ボディガード十兵衛』まさかの謹慎!?
(徳川家光像 出典: Wikipedia)
十兵衛は土豪から大名、果ては将軍家指南役にまで登り詰めた柳生但馬守宗矩の長男として、大和(奈良県)に生まれました。
幼い頃から家伝の武術とも言うべき『柳生新陰流』の手解きを受けます。
十兵衛の父、宗矩が徳川秀忠の指南役であった関係で、十兵衛は10歳の頃に徳川家光の小姓となりました。
小姓とは、身分の高い人の身の回りの雑用からボディガードまでをこなす役割です。
『若様』の場合ではそれなりの身分で、主人と同じくらいの歳で見た目の可愛らしい少年が選ばれることが多いようでした。
この時の十兵衛はまだ片目を失っていなかったです。
その後宗矩が家光の武術指南をするようになると、十兵衛も役目柄と新陰流の技もわかっているため、相手役も務めることができたことなど都合がよかったと考えられます。
家光も十兵衛のことを気に入り、仲も良かったといわれています。
ところが!
十兵衛が20歳の頃、家光の怒りに触れ、謹慎処分のような罰を受けます。
この内容については未だにはっきりせず、十兵衛が稽古中に家光を容赦なく滅多打ちにしたのでは?
という『憶測』があるのみです。
この処分は1年くらいで解かれていたようなのですが、これを機に十兵衛は柳生の里(現在の奈良県柳生町)に帰ってしまいました。
十兵衛は江戸よりも大和の柳生の里を好み、祖父である柳生新陰流開祖の柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)らにも目にかけられていたようです。
元々『中央寄り』の父宗矩は祖父の石舟斎とは折り合いが悪く、宗矩と反りが合わなくなっていた十兵衛は、必然的に石舟斎ら『里の者』と仲がよかったようでした。
クビになったからには~と、気も楽になった十兵衛は自然に大和に足が向いたのは当然の流れといえます。
以降、11年ほど柳生の里で剣術の稽古と研究に励みました。
◆十兵衛が隻眼になった理由とは?!
(柳生十兵衛の弟『宗冬』の刀)
十兵衛の謹慎の理由ですが、十兵衛の性格上宮仕えが長く務まるとは思えず、いくつかの資料によりますと、『稽古中に十兵衛が家光を失神させて、それにより勘気を被った(怒られた)』とあります。
十兵衛が稽古で手加減なしにやったのか、稽古中何かで腹が立ったのか。
また『男色家の家光に迫られて、断ったため』という説もあります。
この時期はまだ『男色』は『嗜み』という考えがありましたから、家光が十兵衛に迫ったのは『普通にありえること』であった訳です。
主君の『お誘い』を拒否して~という流れで殴ってしまったということか?
どちらにせよ家光は家康の孫であり、『将軍家の御世継ぎ様』に危害を加えたとあっては切腹も考えられます。
ただ、十兵衛はこの時に『謹慎』程度で済んでいます。
ここで面白い説があります。
十兵衛の目は、いつから片目になったのか? ということにまつわる説です。
実は十兵衛が片目を失った時期ははっきりしていません。
ここで浮上する説。
『十兵衛の目を奪ったのは家光』という説があります。
幼少時、但馬守との稽古中に片目を失い~
という説もありますが、片目の人間を小姓に上げるとは考えにくく、片目になったのは小姓になってからと考えるのが妥当です。
ちなみに、外見上健常者ではなくなることで、『御役目辞退』はありえることです。
稽古の流れか誤ってか、十兵衛の目を傷つけたのが家光なら『この程度』の処置でもわかりますし、柳生家としても新陰流嫡男が『不覚』を取ったことは隠したい、ということは頷けます。
昔の試合では結構死人も出ていましたし、稽古もそれに準ずるくらいのものであったのは事実です。
細心の注意を払ってたとしても、将軍様だけ例外はありえません。
意外に思われがちですが、家光は武道好きの家康の孫らしく、武道の稽古はしっかりやっていたようです。
昨今の映画、舞台を見るに『家光』という人物があまりにも『バカ殿』が定番になりすぎてしまい、どうにもそのパターンに食傷気味な部分もあります。
たまには『しっかりした家光』というのも見てみたいですね。
◆『凄腕の剣士』十兵衛の謎の死とは??
(芳徳寺にある『柳生一族の墓』 奈良県奈良市 出典: Wikipedia)
11年後、江戸に呼び出された十兵衛は再び家光に仕えることになります。
この頃には『凄腕の剣士』になっていた十兵衛は、父の宗矩に柳生新陰流の印可、つまり免許を譲られます。
めちゃめちゃ強い十兵衛でしたが、慶安3年に鷹狩りの最中『謎の死』をとげます。
十兵衛の死因については未だにわかってません。
大名の跡取りで、自分の弟の領地での死にもかかわらずです。
十兵衛は何者かと戦ったのか?
亡くなったのは慶安3年3月21日のことでした。
お墓は奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にもありますが、東京都練馬区桜台の広徳寺にもあります。
◆まとめ
隻眼の剣豪で将軍家指南役の長男! しかも柳生新陰流の達人。
家光を失神させて野に下る。
これほど小説のネタになりそうなものはないってくらいの人物。
おかげで11年の間『諸国漫遊して悪者退治した』というエピソードはたくさんあります。
ただ、材料だけではこうはなりません。それほど魅力ある人物だったのでしょうね。
柳生の里、正木坂(まさきざか)という所には道場があり、その側には『十兵衛杉』という立派な杉が、今も道場の少年剣士達を見守っているそうです。