母に毒殺されかけた伊達政宗は戦国一のグルメ家だった!
特集
2019.07.10
漆黒の鎧に弦月の前立てがトレードマークの武将と言えば、奥州の独眼竜『伊達政宗』です。
知名度的にも、信長・秀吉・家康の三英傑に次ぐ人気の高さを誇る政宗ですが、伊達政宗とはいったいどのような人物だったのでしょうか?
目次
◆ 伊達政宗ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地:出羽国(現在の山形県米沢市)
・生涯:1567 – 1636年(享年 69歳)
・南奥州(東北地方南部)を統一した猛者
・幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼となった(諸説あり)
◆ 伊達政宗のここがスゴイ「隻眼の政宗は弟の肩を持つ母親に殺されかけた!」
伊達政宗といえば『独眼竜』というあだ名があります。
小さい頃に眼の病気にかかり、右目が不自由になったのですが(諸説あり)、そのハンデを跳ね返し、奥州(今の東北地方)のほとんどを支配した武将です。
しかし、幼少期は右目を失ったショックから内向的になり、周りからは「弟を後継ぎに!」という声も挙がり後継者争いがはじまりました。
政宗の敵、弟派の代表はなんと実の母親!
彼女は美形の弟を溺愛し、片目の政宗を嫌っていたといわれています。
どのくらいかといえば、政宗はこの母親から毒殺されかけたエピソードがあるほどです!
この家中の愛憎劇の結果は、弟の処刑で幕を閉じ、政宗が伊達家の当主となります。
その反動からか、当時の東北地方の武将は争ってはいても誰かが親戚関係にあったため、ずっと決着がつかない状況が続いていました。しかし、ある時から政宗は戦で勝った時に、相手を1人残らず全滅させることが増えていきます。
『中途半端でやめると怨みが残る!』
そう言って東北地方の『制覇』を進めていったのです。
◆ 伊達政宗の知られざる一面「政宗は戦国で一、二を争うグルメ家だった」
伊達政宗といえば実は戦国一、二を争う『グルメ』として知られています!
政宗は「味噌の大量生産」や「東北の米を江戸に売るにまでブランド化した」人物でもあり、なんと自ら厨房に立つこともあったといいます。
政宗の作る有名な朝ごはんのメニューでは
・ふくさ汁
・鮭のなれ寿司
・赤貝焼き
・雲雀の照り焼き
・栗
・里芋
・このわた
などが知られています。
しかし、彼の人生最大の激戦と言わしめた「人取橋の合戦」の後にポロリと漏らしたのは「豆飯に里芋の味噌汁、鰯の丸干しが食べたい・・・」だったそうです。
さすが!ずんだの有名な仙台の殿!
特に政宗が最初に言った『豆飯』は、疲労回復の効果のある献立で、戦国~江戸時代の頃は割とポピュラーなメニューでした。
レシピ は、お好きな豆類をお米と一緒に炊き込むだけ♫
ポイントはやや『おこわ』の様にすること!結構お腹が膨れます♫
そして実はこの『豆飯』は人取橋で散ったある老将の好物だったとか・・・
涙の味の豆飯を食べた政宗は、この後『独眼竜』と呼ばれる武将へと成長します。
◆ 政宗の晩年は徳川家光から絶大な信頼を受けていた
そして晩年、徳川家康に従い娘の五郎八姫を徳川家の松平忠輝に嫁がせ『外戚』となった政宗。そんな彼を『伊達の爺!』と言ってはとてもなついていたのが、後の徳川三代将軍『家光』です。
『戦を知らない将軍』である家光は、周りの『戦国武将』達にひけをとらないようにするために、政宗から『戦の話』を熱心に聞いていたといいます。
有名な『世は生まれながらの将軍である!』という家光の発言の後、政宗は『もしこの言葉を聞いて徳川に敵対する者があれば、まず、この政宗がお相手いたそう!』と、周りの武将を睨み付けたそうです。
家光が弟と後継者争いをさせられたり、これまでの因習を改革しようとしたりしているところに親近感もあったんでしょうね。
政宗は家光を『外孫』の様に可愛がり、家光は『爺』と懐き、政宗の死に際して家光は父、秀忠以上に泣きじゃくったそうです。
◆ まとめ
政宗は戦が強いだけでなく、料理のセンスやプロデュース力、さらには抜群のコミニュケーション力といった類まれな個性で輝くことができる魅力にあふれた武将です。
馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所
不楽是如何 楽しまずして是を如何にせん
これは、政宗の辞世の句ですが「残された人生楽しまないでどうするんだ!」と詠むその感性からは、心ゆくまで人生を楽しんだ政宗の豪放磊落さが伝わってきます。