Mr.謀叛と言われた男。下剋上と裏切りを繰り返した戦国時代の梟雄、松永久秀とは?
特集
2019.10.29
稀代の『裏切りマスター』松永久秀をご存知でしょうか?
信長を裏切っても許されたという久秀は、勇猛な人物として戦国時代の「梟雄」と呼ばれる武将です。
治安維持などの業務を行う弾正の官位を頂いたことから松永弾正とも呼ばれることもあります。
今回は下剋上の日々を送る一方で、多才な文化人としての顔を併せ持っていた松永久秀の人柄に迫りたいと思います。
目次
◆松永久秀ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・出身地:阿波国(現在の徳島県)、摂津国(現在の大阪府)など諸説あり
・生涯:1508年(永正8年)〜1577年(天正5年)
・畿内〜阿波国(現在の京都周辺〜徳島)を支配した三好家に仕える
・永禄の変で将軍足利義輝を襲撃して殺害
・東大寺大仏殿の戦いでは大仏殿を焼き討ちにして大仏の首を落とした
◆松永久秀は日本で初めて天守を築いた人物
永世5年、久秀の生まれについては現在の徳島、または大阪で生まれたという2説があります。
25~6歳のころに徳島の大名、三好長慶に『書記』として仕えたということからは、きちんとした教養を身に付けていた人物であることがわかるでしょう。
事実、長慶の書状を『代筆』したものがいくつもあります。
この久秀の主君、三好長慶も下剋上の人!
天文18年(1549年)、なんと時の将軍、室町幕府13代足利義輝を追放しています!
この時、久秀は京都を手に入れた長慶の側にいたわけです。
久秀は長慶の元で力をつけ、永緑2年(1559)、近畿方面の重要地点である筒井順慶の筒井城を落とし、翌年には大和(奈良県)を手に入れます。
そしてこの頃、信長より先にあるものを建てました。
それはなんと『天守』!
信貴山城という城に日本初の天守を作ったのは松永久秀といわれています。
◆三好家を手中に収めた暗躍時代
そんな昇り調子の久秀なんですが、上に上がるには誰かを蹴落とさなければいけないことに気付きます。
「この上に行くには・・・」と考えた久秀が目を向けたのは主君である三好長慶の一族でした!
ある時期に三好長慶の弟達が相次いで死んでしまったのですが、久秀による『暗殺説』がかなり黒に近いグレーという風に囁かれています。
これにより長慶も塞ぎこんでいたある日、長慶はなんと弟の安宅冬康を呼び出して殺してしまいました!
この事件の背後にも久秀の暗躍があったとのではないかと云われています。
この長慶による弟殺し事件のあと、長慶は久秀の口車に乗ったことを後悔すると、病気がさらに重くなって死んでしまいました。
こうして三好一族を排除した久秀は見事乗っ取りに成功したわけです。
さらに翌年には御所を襲い、仲直りしたと見せかけていた将軍・足利義輝を襲撃し殺害してしまいます(永緑の変)。
さらにさらに!
利用するだけ利用した三好家の三好三人衆と敵対し、三人衆が拠点としていた東大寺の大仏殿に火を放ちました!
松永久秀のここがすごい!
ここに並べると、松永久秀は『上役殺し』『主君の家族殺し』『主殺し』『将軍殺し』『仏殺し』と、戦国武将中ナンバーワンの下剋上を達成していると言っても過言ではないでしょう。
しかし、そんな久秀も巻き返しをはかった三好三人衆に逆襲されると信長の傘下に入って身を守ったのでした。
なんとも抜け目のない男です。
◆久秀は信長を2度裏切って許された?!
信長の『同盟者』となった久秀は、当時信長が茶器に凝ってるのに目をつけ、大名物といわれていた『九十九髪』という茶器を献上します。
気をよくした信長は久秀を自軍に加えると、朝倉義景討伐戦にも参加させています。
しかし、浅井長政の裏切りから、撤退を余儀なくされた織田軍は金ヶ崎の戦いと呼ばれる苛烈な撤退戦を演じる事になる。
殿の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、あわやという所に近江の朽木元綱の協力を得て一難を逃れますが、このとき元綱を説得したのが久秀でした。
一説に『裏切りにいち早く気付いたのは松永久秀であった』と云われていますが、裏切りには慣れていたというのいうものあるのでしょうか。
その後、足利義昭、武田信玄らによって、いわゆる『信長包囲網』を敷かれると、久秀は不利を感じたのか、はたまた『裏切りの虫』がうずいたのか、久秀は武田信玄と密通し、ついに元亀3年(1572)、信長と敵対します!
ところが!
信長包囲網の強力な一翼、武田信玄が急死し、足利義昭も信長に破れると久秀は居城である多聞山城を差し出して信長に降伏。
信長はさぞ怒った・・・らしいのですが、その後はあっさり久秀を配下に組み入れます。
しばらくはおとなしく、石山本願寺攻めに加わった久秀でしたが、上杉謙信、毛利輝元らが石山本願寺と結託すると、なんと本願寺攻めから離脱!
信貴山城に立て籠ってしまいます!!
信長にしてみれば完全に軍旗違反です!
しかし、信長は部下の松井友閑を使者にして『理由を聞いてこい!』と久秀の元に行かせます。
信長にしてみれば怒りを抑えての譲歩でしたが、それでも久秀は会おうともしませんでした!!
怒り心頭の信長、大軍で信貴山城を包囲します!
しかし、信長はここでも『降伏の条件』を出しました。
久秀に対して「『平蜘蛛の茶器』を渡して除名嘆願せよ!」と言うと、久秀は
『平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする』」(『川角太閤記』)
と、いい放ち自害したのです。
一説に平蜘蛛の茶器に火薬を詰めて爆死したともいわれています。
久秀は信長を2度裏切って許された稀有の人物で、信長も茶人、文化人としてかなり高い評価をしていたと思われます。
実際に何度も茶の湯を楽しみ、静かな会話を交わしたのだとか。
また、松虫の研究をしていたともいわれ、通常1年ほどで死んでしまう松虫を3年も生き長らえさせて『虫も養生すればこのように長生きする。人間も養生すれば同じく長生きする』と語った逸話があります。
武将としても有能で、敵側だった筒井家の『島左近』から『昨今の諸侯は明智光秀公や松永久秀公のような果断に欠けている者が多い』とも評されました。
ある百姓を処罰した時には簑を着せて、それに火を放ち『簑虫躍り』と言って笑ったエピソードが伝わっていますが、そのせいあってか久秀が死んだときには百姓達は酒を買って大宴会をしたといいます。
◆まとめ
信長の行った「安土城天主建立」「将軍追放」「比叡山焼き討ち」などのほとんどを『先駆けて』いた松永久秀に対し、信長はある種の敬意を抱いていたのかも知れません。
茶人、文化人としてよりも『先駆者』としての久秀にシンパシーを感じていたのでしょうか。
斎藤道三、宇喜多直家と並び『日本の三大梟雄』といわれ、Mr.下剋上、裏切り癖のある者、悪人として伝わる松永久秀ですが、信長の昇る階段の先にいた人物であることを、信長は感じていたのかもしれません。
燃え落ちる久秀の城の炎は本能寺を連想させますが、もしかしたら信長も何か思うところがあったのかもしれませんね。