サムライ書房

伊賀忍者、服部半蔵の正体に迫る!

「歴史上最も有名な忍者」と言っても過言ではない服部半蔵!

家康に仕え、伊賀忍者達の頭領とも伝わる半蔵の知られざる一面について迫ります。

 

◆服部半蔵ってどんな人?

(出典:Wikipedia)

・出身地:三河国(現在の愛知県東半部)

・生涯:1542年(天文11年)〜1597年(慶長元年)

・本名は服部正成(通称服部半蔵)

伊賀者統率し、譜代武将として徳川家康仕え

◆神君、伊賀越え。家康のピンチに半蔵あり。

天正10年6月4日。急峻きゅうしゅんな伊賀の山中を行く一団があった。

その中に1人の戦国大名がいた。

徳川家康である。

本能寺の変(6月4日)の後、信長を殺した光秀らは主だった信長派の『影響力のある者』を殺すことを計画していて、それは実際に名のある武将たちが問答無用で殺されたことが物語っている。

「このままグズグズしていたら、殺される」

そう思った 家康は江戸城への逃走を選んだ! 

そして江戸までの逃げ道として、選んだのは険峻けんしゅんな伊賀の山中を越えるルートだった。

夜通し山道を歩き、明けて暮れ、また明けた。

伊賀に入り、疲労も限界・・・。

ふと怪しい気配に気付くと周りを野武士達に囲まれていた!!

疲労困憊の10人程度の家康達に比べ、倍以上の野武士達。

あわや絶対絶命の大ピンチ!

しかし、野武士達は音もなく忍びよる影に瞬く間に倒される。

影の中から1人の男が進み出る

「この先は我等が縄張り。御案内つかまつる」

家康を助けた者こそ伊賀三頭目の一人『服部半蔵』でした!

『神君伊賀越え』の一節ですね。

◆服部半蔵は、実は1人の人物では無かった!?

服部半蔵といえば、家康に仕えた伊賀忍者の頭目として有名ですね。

実は『半蔵』というのは1人の人物ではなく代々継ぐ名前で、この半蔵は二代目、初代服部半蔵保長やすながの五男、服部半蔵正成まさなりと云います。

実際はこの半蔵、武将で『鬼槍半蔵』と言われた槍の名手で、伊賀忍者を率いる武将でした。松平家からの譜代で、徳川十六将にも数えられてます。

天文11年(1542年)、三河に生まれ五男だったため正成まさなりは6歳で寺に預けられるが、9歳で寺を飛び出し、兄の元で腕を磨いたといいます。

その後、弘治3年(1557年)、16歳の頃、三河宇土うと城(上ノ郷うえのごう城)の夜襲で戦功を立て、家康から持槍を拝領したエピソード(『寛政重修諸家譜かんせいちょうしゅうしょかふ』)を皮切りに、遠江国掛川城攻略、姉川の戦いでも武功を立てました。

元亀6年(1571年)の三方ヶ原の戦いでは、家康が窮地に立つ中、正成は『武功を立てた』との記載があります。

半蔵は三河一向一揆、姉川の戦い、対武田の数々の戦、小牧・長久手攻め、小田原攻めと家康のほとんどの戦に参戦している。

中でも家康の大受難である三方ヶ原みかたがはらの戦い』『伊賀越え』の両方に、半蔵の働きがあったとあります。

正に家康の窮地に半蔵あり』ですね。

◆非常の忍、半蔵の目に涙。

半蔵には戦功だけではないある逸話が語り継がれています。

それは天正7年(1579年)に、家康の嫡男『信康』が織田信長に疑われて自刃させられる事件があった時です。

当時、切腹には腕のいい介錯をつけるのは『最後の情』とされていました。

家を守る為とはいえ、自分の息子に切腹を命ずるのは断腸の思いだった家康が『せめて苦しまぬ様に』と介錯かいしゃくを命じたのが、半蔵だったのです。

非情の忍、服部半蔵ならば・・・

しかし、半蔵の目からは涙が!

『三代相恩の主に刃は向けられない』

その想いから介錯をすることが出来ず、最終的には別の人物が介錯をしたと言われます。

家康も涙ながらに『鬼と言われた半蔵も人の子か・・・』と呟いたそうな。

最高の介錯人として、また最も頼りにする家臣として半蔵を推した家康。

それに応えようとしたが『涙』する半蔵。

2人の仲が伺える逸話ですね。

半蔵は死後に江戸麹町清水谷の西念寺(現在の東京都新宿区)に葬られるんですが、この西念寺は元は半蔵が生前に信康の菩提ぼだいを伴うために創建した寺院でした 。

こういった経緯があったからでしょうね。

家康はこの半蔵の名を、江戸城の一角に残しました。

これが今でも残っている『半蔵門』ですね。

◆傭兵としての忍者

忍者は『住んでる土地が農業に向いてないため、出稼ぎの傭兵としていろんな所に雇われて賃金を得る』というパターンがあります。スイス人傭兵と同じですね。

なので『噂に聞く』というように評判を立てることが必要な場合もあります。

世に云う二大忍術書というものがあります『正忍記しょうにんき』と『万川集海ばんせんしゅうかい』には、11人の忍術達者が挙げられています。

曰く、野村の大炊孫太夫おおいまごだゆう、新堂の小太郎、楯岡の道順どうじゅん、下柘植の木猿(大猿)、下柘植の小猿、上野の左、山田の八右衛門、神戸の小南、音羽の城戸、甲山(高山)の太郎四郎、甲山(高山)の太郎左衛門。

この中の1人に『楯岡道順たておかどうじゅん』の名がありますが、道順は伊賀の中忍の出で、本姓を伊賀崎といいます。

楯岡というのは『楯岡』に住んでいたため呼ばれた『通称』です。

45人の伊賀者と4人の甲賀者を率い『妖者(化者、ばけもの)の術』という潜入工作のエキスパートと言われ「伊賀崎入れば(城)落ちにけるかな」と評されました。

道順は伊勢の北畠氏や近江の六角氏に仕えたといわれています。

六角義賢ろっかくよしたかに仕えていたころ、義賢の配下だった百々氏どどしが謀反を起こした時、道順は怒った六角の依頼で百々氏の居城である沢山城(佐和山城など諸説あり)に忍び込みました。

予め偽造しておいた城中道具や提(当時提灯は入場パスや社員証みたいなものだった)を使い、城に潜入。

わざと反対側から火をかけ、城内を大混乱させたのです。

この機に常じて、六角勢はたやすく隊城を落とし、道順は一番手柄を立てたといわれます。

よく小説や映画には、伊賀と甲賀は天敵のように描かれていますが、これも講談や小説によるもの。土豪同士争うこともあれば、このように共闘する事もあったのです。

特徴的なのが、伊賀は上忍三家『百地』『服部』『藤林』を上に持つ『ピラミッド型血族系』なのに対し、甲賀は『甲賀五十三家』といって上忍を置かず、53の家による合議制をとっていました。

そして甲賀者の多くはちゃんとした姓名を持ってるのに対し、伊賀者はあだ名や屋号みたいな名前なのも特徴です!

大名の家臣として仕えるといったように『仕える道』を取った甲賀衆にくらべ、伊賀は家康との出会いまで『傭兵集団』として独立した体を保っていた者が多かったのも特徴ですね。

◆まとめ

4代目 服部半蔵(正重)からは桑名藩の家老となり、12代目服部半蔵正義は幕末、21歳で京都所司代の藩主の松平定敬まつだいらさだあきを補佐し、まさに『徳川の陰に半蔵あり』の面目躍如となりました。

常に家康(徳川、松平)の側にあって護衛や諜報活動という『裏方』であり、かつ『情報戦』という重要な役目を貫いた半蔵。

現在の商社マンのようでもあります。

地味で根気のいる仕事こそ大事とわかっている2人は、単に『雇用』の関係ではない、一種特別な信頼関係があるように思えます。

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