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謎多き武将、『明石全登』はキリシタンで行方不明常習者? 『生存伝説』の武将の謎に迫る!

謎の多い宇喜多家家臣にして、猛将でキリシタンという複雑な武将、別名『Mr.行方不明』

明石全登(たけのりまたはぜんとう) 。

宇喜多家のために生涯尽くすが、ことある場面で行方不明に??

謎多き武将、『明石全登』の生涯に迫ります!!

 

◆明石全登ってどんな人?

・生涯:??年〜1618年(※諸説あり、はっきりとしたことは現在でも不明)

・備前国(現在の岡山県) ※こちらも説の中の一つで、はっきりとしたことが分かっていない。

・宇喜多直家と共に関ヶ原の戦いで西軍についた

・熱心なキリシタンとしても有名

・全登の死に関する資料は今のところ発見されておらず謎が多い武将

◆戦の度に行方不明?! 明石全登の行方不明エピソードとは?

関ヶ原の戦いで、家康への内通、寝返りが続出する石田三成率いる西軍。

その中でも『真面目に戦う西軍』の内、最大級の隊から怒号が聞こえてくる。

『松尾山(小早川秀秋の陣)に乗り込み金吾(小早川秀秋)めを叩き斬ってやるわ!』

美形に似合わない声を荒げたのは西軍の『副将格』として、最も積極的に戦っていた宇喜多秀家。

東軍、福島正則隊と激戦を繰り広げていた真っ最中、同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで、西軍は総崩れとなった。

激怒した秀家を止めたのは明石全登。

『殿を(備前岡山に)落ち延び参らせよ!』

秀家の視線を追うと、大谷吉継の隊が壊滅していくのが見える・・・

そして明石全登は背中を見せた。

『殿・・・さらばでござる』

明石全登の銀十字が戦の中に消えて行った・・・

ちなみに明石全登は行方不明になりましたが、関ヶ原を無事生き残り、いろいろあった後、宇喜多家に帰ってきました。

その後公式史上初の八丈島への流人となった秀家を助けることと、キリシタンの保護を条件に大阪の陣に参戦しました。

そしてまた特攻し、戦場に消えたのです。

キリシタン故、自刃はしないと言われ、明石全登は再び行方不明になりました。

◆『Mr.行方不明』は熱心なキリシタンだった??

明石全登は、宇喜多氏の客将(客分である武将)であり官位は掃部かもん頭(宮内省に属する官位)でした。

全登の別名は守重、景盛、全職。

全登は明石景親の子として生まれ(生年月日などは諸説あり)、妻は宇喜多直家の娘。子に明石景行、明石内記。

全登はキリシタンで、洗礼名はジョアン・ジュストです。

宇喜多家領内に『日本26聖人』と呼ばれるキリシタン達が通る際に、全登は彼らを護送しました。

この時の全登の丁重な振る舞いは宣教師を通じ、ヨーロッパへ伝えられたといわれています。

慶長4年(1599年)の宇喜多家のお家騒動(宇喜多騒動)により重臣の多くが出奔しゅっぽんした後、全登は執政として宇喜多家を取り仕切り、宇喜多秀家の軍師的存在でもありました。

翌年の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が西軍に参戦すると、兵八千名を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦。

前哨戦『杭瀬川くいせがわの戦い』で島左近とともに勝利を収めます。

しかし、関ヶ原の戦いでは西軍は敗走。

ちなみに明石隊には、宮本武蔵が参陣していたという説があります。

全登は戦の中、宇喜多秀家とはぐれ行方不明に!

実はこの時、敵方の黒田長政に助けられて、全登は関ヶ原から脱出していたのです。

宇喜多秀家が戦後処理で八丈島に島流しとなった頃、全登は、同じキリシタン大名で従兄弟の黒田孝高に庇護ひごされましたが、孝高の死後、息子の長政がキリスト教を禁止したため、浪人となりました。

◆大阪の陣の後、再び行方不明に??

(天王寺公園 大阪府大阪市)

全登は潜伏すること14年、慶長19年(1614年)についに大坂の陣が起こると豊臣方として参陣。

かの真田幸村らと共に大阪方の武将の中心人物となりました。

全登は十字架を先頭に掲げた部隊を率いて大坂城に堂々入城。

するとそこで異様なことがおきたのです。

なんと明石らを頼って多くのキリシタン達が西軍に参戦しました。

実は明石全登の『勝利した際の約束』は弾圧が進むキリスト教信仰の自由と八丈島に流された旧主・宇喜多秀家の解放だったのです。

幕府のキリスト教禁制で、100人以上のキリシタンが国外追放のき目を見る中、豊臣家だけが布教を許していました。

戦は休戦となりましたが翌年、夏の陣が勃発。

全登は大和口迎撃の前衛に配置されます。

しかし、天王寺の戦いの前に、全登は銃弾を受け負傷。

相手は後藤又兵衛を破り、勢いづく東軍! 全登はよく防ぎますがこのままでは・・・というところで全登は『精鋭300人をもって船場から迂回し、背後から家康本陣を衝く』という作戦に打ってでます!

かなり無茶な作戦でしたが、全登は出陣!

戦場で戦機を伺うが、秀頼の出馬延期、予想以上の徳川軍の進軍速度などで作戦はあっさり

互解・・・

しかし諦めない全登は、何と自らの手勢のみで敵中に突撃。

奮闘したが所詮小勢。たちまち壊滅状態となりました。

全登の消息は関ヶ原に続き再度行方不明になったのです。

◆明石全登のここがすごい! 実は生きていたかもしれない明石全登、生存説とは!?

全登の活躍は細川忠興をして『真田・後藤に次いで木村長門、明石掃部かもんも手柄にて』と挙げられ一躍有名になりました。

大坂城が落城した後は戦死したとも、海外逃亡したとも言われていますが、死体が見つからず、どこでどう死んだかが不明といわれています。

熱心なキリシタンである全登が、戒律を破り自害した可能性は考えられません。

こういう話と関ヶ原の戦いの後に生存していた話で、明石全登生存説というものが考えられます。

 かつて関ヶ原での行方不明では田中吉政により東近江の村々に捕縛の書状が配られ、夏の陣後での強さの評判の為『このくらいで死ぬはずがない!またどこかに潜んでいるに違い 

ない』と噂されました。 

島原の乱の前後も、キリシタン関係の問題がある度に『明石がまだ潜伏してて、キリシタンを扇動してるのでは・・・』と家光でさえ『明石狩り』を行ったそうです。

後のエピソードに、朝鮮半島である村が賊に襲われた際、ロザリオを付け、眉尖刀びせんとう(細身の大刀、または細長い刀身の薙刀なぎなたの様な武器)を持った男が現れ、賊を蹴散らし『自分は日本の明石という者だ』と言い残して、いずこへか立ち去ったという話もあったようです。

◆まとめ

明石全登は主君、宇喜多秀家の家老的な立ち位置にいたんですが、関ヶ原の戦いで戦線離脱し浪人となるも、大阪の陣で再登場するまで秀家のことをずっと気にしていたのでしょうね。

強くて人望もあって、キリシタン達に人気もありました。

そのような人物だったが故に、家康達は明石全登を探し、また生存説にヒヤヒヤしたのでしょう。

全登がどうなったのかは今後の研究を待つことにいたしましょう。

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