【池田輝政】織田信長を始めとする戦国三大武将に仕えた姫路城築城の主は器のデカさも半端なかった。
特集
2019.07.10
池田輝政は戦国時代三大武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。
また輝政は日本のお城の中でも『現存12天守』かつ『国宝』、そして『世界遺産』である姫路城を築城したことで知られますが、輝政とはどのような人物だったのでしょうか?
*揚羽蝶の家紋は池田家の家紋として有名ですね。
目次
◆ 池田輝政ってどんな人?
(出典:Wikipedia)
・生誕:尾張国(現在の愛知県清瀬市清洲町)
・生涯:1565 – 1613年(享年 48歳)
・織田信長の重心、池田恒興の次男として生まれる
・美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる
・姫路城を現在残る姿に大規模に修築した
◆ 池田輝政のここがスゴイ「秀吉からの寵愛を受けて」
池田輝政の父親はかの織田信長の乳兄弟、池田恒興です。
しかも、恒興の母親(輝政の祖母)が信長の乳母で、信長の父信秀と再婚し側室におさまった為、恒興は信長とは乳兄弟であり義兄弟になります!
恒興は古くから織田家の小姓として仕え、よく漫画やドラマではうつけ時代の『兄弟分』(かなりの苦労人)として描かれたりします。
そんな恒興の次男が輝政です。
物事にはこだわらない性だったらしく、豊臣秀吉に仕えていた福島正則と先手争いした時も『主張はするが、あっさり譲る』といった風でした。
そういう所がよかったのか、秀吉にはとにかく気に入られ側室を世話してもらうのですが、なんと秀吉の世話で娶った側室というのは、徳川家康の娘・督姫でした!
また、秀吉の養子であり豊臣氏の2代目関白である秀次が切腹した秀次事件が起こった時には、『家族皆殺し』の処罰として秀次の妻や妾達が処刑される中、なんと秀次の正室だけは輝政の妹ということで助命されているんです。
いかに秀吉が『気を使っていたか』が分かります。
◆ 池田輝政の知られざる一面「親の仇である家康の信頼を見事に勝ち取る」
輝政は口数が少なく、温和な性格でしたが輝政が持っていたのはそうした一面だけではありません。
武将としてもかなりの猛将で「花熊城の戦い」では自ら5~6人の敵武者の首をあげ信長から感状(表彰状のようなもの)を送られています。
信長が亡くなってからは秀吉に仕えた池田氏。
それから「小牧・長久手の戦い」に参戦しますが、ここで父の恒興と兄である元助が討ち死に!
この為、池田家は輝政が当主となります。
その後、秀吉と家康が和解して「小牧・長久手の戦い」は終結しました。
輝政は晴れて『舅』である家康に挨拶をしに行きました。
家康もほっとして、温和な輝政と打ち解けた頃!
輝政は、長久手の戦いで父の恒興を討った永井直勝を召し出させました。
家康『え、あのときは・・・ホラ、敵だったから~そんな、ねえ・・・』
輝政『家康殿!我が父お討ち取った、その恩賞はいかほどであったか?』
家康『ご、五千石・・・』
輝政『なんと!』
家康『不味かった?そうだよね?三千くらい・・・』
輝政『我が父の首は、たった五千石と!』
輝政は家康に直訴!
内容はなんと直勝への領地・禄高の加増!
『我が父を討った手柄はもっと大きくあってほしい!』
輝政の直訴の結果、永井家はその後七万石の大大名となったそうです。
その後は功名争いもせず、家族を大事にした池田輝政は姫路城の改修をし、播磨の初代藩主となってから、慶長18年に50歳で急死。死因は中風(脳出血などによって起こる半身不随)と言われてます。
◆ まとめ
武将というのは己の首の価値にダンディズムを置き、戦の時に身に纏う陣羽織に己の生き様を背負うのでしょう。
他に類を見ないほどの懐の深さを持った輝政がいなかったら、私たちは姫路城を目にすることはできなかったのかもしれません。