主君変えの猛将 『藤堂高虎』
特集
2020.02.10
人情家の大男は無銭飲食疑惑あり?
身長が190cmあったと言われ、「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ!」と言い放ち戦国の世を渡り歩いた藤堂高虎の生涯に迫ります!
目次
◆藤堂高虎ってどんな人?
(出展 Wikipedia)
・生涯:1556年〜1630年(享年 74歳)
・出身地:滋賀県
・身長が6尺2寸(約190センチメートル)の大男
・幼少期、百姓同然の貧しい武士であった
・築城技術に長け、主君に忠義を尽くす武士の時代に「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言で有名
・関ヶ原以降、徳川において『先鋒こそは、譜代は井伊、外様は藤堂』と言われた猛将。
◆高虎のここがスゴい!待遇を求め7度も主君を変えた武将!
藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村の領主、藤堂虎高の次男として生まれ、幼名は与吉と云います。
長男が早くに亡くなった為、領主の『後継ぎ』となりました。
しかし、この頃の藤堂家は土豪の小領主どころか半農民まで没落していたため、高虎はかなりの苦労人であったと言われています。
講談『藤堂高虎、出世の白餅』では、
”浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時、与右衛門)が三河国吉田宿(現・豊橋市)で吉田屋という餅屋で無銭飲食するが、主に故郷に帰って親孝行するようにと諭され路銀まで与えられ、感動! ”
後日譚として、後に大名として出世した高虎が吉田屋に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられています。
高虎は最初、浅井長政に仕え、23歳で姉川の戦いに参戦をし武功を挙げ、晴れて浅井家家臣となります。これでやっと・・・と、思ったのも束の間。浅井家は織田信長によって滅ぼされてしまうのです!
さぞや落ち込むかと思われましたが、ここが高虎のめげないところでした!主君がやられるとすぐに浅井の旧臣だった阿閉貞征(あつじさだゆき)に仕え、その後転々と主君を変えていくのです。
その遍歴は、
浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊富秀長→秀和、秀吉→徳川家康以下→秀忠→家光
という凄まじいものであります。
このようなことで度々あまりよく描かれない事が多い高虎ですが、戦国時代は『いい待遇』を求めて主君を替えるのは『普通』であったと云われています。
また、主君を替えていく理由としても、織田信澄に仕えていた時は『功績があるのに加増がない』というものであったことや、また豊臣秀長に仕えていた際には、秀長が死ぬまで仕えていました。それらの事を踏まえると、決して単なる裏切り者ではなく、出身が身分の低い者だからこその『実』にこだわる部分もあったようですね。
◆高虎には築城名人としての別の顔も…??
(宇和島城)
秀長の家臣時代、中国攻めにも参加し、賤ヶ岳では佐久間盛政を敗走させ、九州征伐でも活躍し2万石に加増されました。
関ヶ原の合戦では大谷吉継と、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊と激突します!
共に士気の高い軍団を引き受け、さらに諜略をめぐらせました。
武将、そして指揮官としても有能な働きぶりで、さらに高虎にはもう1つの『特技』があったと云われています。
それが築城!高虎は城作りの名人だったのです。
高虎が手がけた城は主なものだけでも、
今治城、宇和島城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城、二条城、
などといったそうそうたるラインナップです!
高虎の城作りに関するこのようなエピソードがあります。
豊臣秀吉が、なんと聚楽第の中に『徳川家康が上洛の時用の屋敷を建てる!』と、言い出した時のことです。
現場指揮を任された高虎は図面を見て、不備を発見します。すると高虎は独断で訂正、改良を費用『自分持ち出し』で進めていきました。
完成した屋敷を見た家康は『図面と違うところがあるが?』と、尋ねると高虎は『もし(不備な所を)そのまま建設して、家康様の身に何かあったら、我が主君の秀長様の責任となり、果ては秀吉公の顔を潰すことになる。そう思って私の独断で変えました。これは私の責任です。もしお気に召さない場合はどうぞお切りください』と言いはなったのです。
武将の中では数少ない『職人気質系』の武将でした。
◆高虎は家康にも嘆願するほどの部下思いの上司だった!?
自ら主君を変える高虎。では家臣に対してはどうだったか?
高虎は『やめます。お暇を下さい』という家臣がいると『明日、茶を振る舞ってやろう』ともてなし、さらには刀等を渡し『頑張れよ・・・でも行った先が気にくわなかったらいつでも戻って来い』と、送り出したという逸話があります。
なんともさっぱりしていますね!
実際、他に行って失敗して出戻って来た家臣を、出ていく前の領地に同じ待遇で戻した記録もあります。(老人雑話)
高虎は『家臣を使う時にはお金だけではなく『情け』をもってやる。そうすれば、家臣はいざというときに命を張ってくれるもんだ』と語ったそうです。
また『殉死』といって、主君が死んだ時に後を追って切腹するという行為があるのですが、高虎はこれに『禁止』をかけます。
高虎が『私が死んだら殉死しようとする者がいたら、ここに名前を書いた札を入れなさい』と、箱を出し投票させると、後日家康の前でそれを公開しました。
周りの高虎よく思っていない家臣からの『なんだ自慢か?』という冷たい視線の中『家康様、私が死んだら殉死するという者がこんなに出てしまいます。この者達は必ず家康様のために命を張って尽くす者達ばかりです!それを失う事になるので殉死は家康様から禁止令を出して頂けませんか?』と、嘆願し家康は承諾をすることにします。
そして家康は『高虎の家臣に高虎を追っての切腹を禁じる!』と命令しました。
高虎は『殉死を希望した者は殉死をしたと同じである。だからこれからは死んだつもりで藤堂家、そして徳川家に仕えなさい』と諭した、と言われております。
◆まとめ
百姓同然の状態から出世した藤堂高虎。
主君替えの意図には『能力を見出だし、使ってもらい、自らもそうする』という能力待遇をすすめた事も考えられますが、その根底には、苦労した人だからこその『人情』を大切に思っている事が見受けられます。
諸説ありとは云われますが、やはり高虎は『人情家』だったようですね。