『武田信玄』の息子、武田家最後の男『武田勝頼』の生涯に迫る!!
特集
2020.02.21
戦国最強武士として名高い『武田信玄』の息子『武田勝頼』。
実は跡取り候補ではなかったのだとか??
甲斐武田氏最後の当主『武田勝頼』の生涯に迫ります!!
目次
◆武田勝頼ってどんな人?
(出展 Wikipedia)
・生涯:1546年〜1582年(享年 37歳)
・父親は『武田信玄』
・信玄死後、甲斐武田家20代目当主となる
・『長篠の戦い』で織田、徳川軍に敗戦
・最後は天目山まで追い詰められ自害した
◆ 戦国最強『武田信玄』の息子は『日陰の子』だった??
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の奥に少年の姿がありました。
少年は妾腹(しょうふく)の4男。
家を継ぐ可能性どころか、館から出る事も稀な『日陰の子』であったそうです。
その少年が鮑の煮貝を見て、
『この鮑はどこからきたのか?』
と、尋ねると、家臣は『海からです。』
少年『諏訪の湖(うみ)からか?』
家臣『いえ、諏訪よりはるか彼方に諏訪の湖よりも、もっと大きな『海』というものがございます。』
少年『海…』
この少年が後に甲斐武田家20代目当主となる『武田勝頼』です。
勝頼の父である『武田信玄』と言えば、『甲斐の虎』と云われ『風林火山』を旗印に無敵!戦国最強! と言われた武田軍を率いる甲斐武田家19代目当主として活躍しました。
信玄は織田信長も恐れ、家康を震え上がらせた武将として名を馳せます。
しかしその信玄の幼名は太郎♪
名は晴信で、信玄というのは出家した後の名ですね。
そんな信玄率いる鉄の団結の武田軍ですが、一度大揉めをしたことがあります。
信玄は天文11年(1542年)6月に、諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族を滅亡させました。
その時、信玄は信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘(諏訪御料人と云われます)を側室にすると言い出したのです!
家臣は『恨みを残す』と猛反対しましたが、信玄は強引に進めてしまいます。
しかしこの女性、実名がはっきりしないのですが、この女性が産んだのが『四郎』。
後の跡取り『武田勝頼』です。
生まれは天文15年(1546年)と言われてます。
◆ 勝頼に「信」の字が無かったのは、跡取り候補じゃ無かったから?
(武田家家紋)
勝頼の他の兄として、長男の武田義信(1538年生まれ)、盲目で出家した次男竜芳(1541年生まれ)、早世した武田信之(1543年生まれ)がいて、四番目が四郎勝頼です。
五男以下が、仁科盛信、葛山信貞、安田信清などとなっております。
勝頼の幼年期に関する資料がほとんど無く、武田家嫡男の義信や次男・信親(竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても、勝頼幼少期や諏訪御料人に関する記事はほとんど見られず、乳母や傅役など幼年期の事情も不明です。
信玄は勝頼の兄同様(自分で滅ぼしておいて)近隣の名家の跡を息子達に継がせることで、それらの家を傘下に取り込んでいきました。
勝頼は、これも信玄に滅ぼされた母方の諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である『頼』を名乗り『諏訪四郎勝頼』となるのです。
この『諏訪四郎勝頼』という名前、一点気になる点があります。
勝頼は武田氏の通字である『信』を継承していないのです!
おそらく幼少期も改名してからも、勝頼は『跡取り候補』としては見なされていなかったのかもしれません・・・
1573年、都に進軍中に信玄が死亡しました。
病没、もしくは三方ヶ原での傷が元での戦死とも言われております。
勝頼は信玄の死により家督を相続することになりました 。
ところが一説に『信玄は孫に家督を継がせ、勝頼にはそれまでの『後見人』を命じた』という伝承もあります。
◆知られざる武田勝頼ストーリー
(設楽原古戦場跡 「長篠の戦い」戦場 愛知県新城市)
この後、いくつかの戦に勝利する勝頼ですが、事ある毎に父である信玄に『比べられた』ようで、勝頼の心中は平静をなくしていきます。
その後、有名な長篠の戦いがはじまります。
『武田の騎馬隊に対して、信長は柵を作り、鉄砲を三段構えにして、1列目がうち終わると2列目が撃ち、替わって3列目が撃つ頃には1列目は弾ごめを終えているので間断なく鉄砲の攻撃ができ、ついには武田の騎馬隊を破った』というのが『有名な史実』です。
しかし、勝頼は何も考えていなかったわけではありません。
柵や鉄砲の3列の陣形は見ればわかりますし、対抗策もあったはずです。
それでも、やはり勝頼は『信玄の戦法を使って、信玄のように勝つ』ことが目的であったのでしょう。
哀れ、勝頼の戦法は無謀な特攻となって『無敵』と言われた騎馬隊と有能な家臣達を失ってしまったのでした。
◆まとめ
織田軍に破れた勝頼は、外交や縁組(政略結婚など)による同盟等に力を入れますが、ついに信長が総攻撃を開始します。
勝頼は天目山に追い詰められ、その人生に幕を閉じました。
歴史に『if』はないとは言いますが、
跡取りにならなければ、諏訪で母子仲良く暮らしていたのかもしれませんね。