歴代征夷大将軍最強!! 『剣豪将軍』といわれた『足利義輝』とはどんな人物!?
特集
2020.04.12
(出典:Wikipedia)
室町幕府の『剣豪将軍』といわれた足利義輝。
塚原卜伝も認めた剣の腕とは?
「仲裁将軍」と呼ばれ他の武将や民衆に好かれていた一面も?!
室町幕府第13代将軍『足利義輝』の魅力に迫ります!!
目次
◆足利義輝ってどんな人??
(出典:Wikipedia)
・生涯:1536年〜1565年(享年30歳)
・出身地:京都府
・室町幕府第13代将軍、剣豪として名を馳せた
・『仲裁将軍』として数々の武将の仲裁を行なった
◆義輝は11歳で将軍に!? 波乱と異例の『少年将軍』!
(『金閣寺』 京都府)
天文5年3月10日、京都の東山南禅寺で室町幕府第12代将軍『足利義晴』の嫡男、つまりは跡取り最有力候補が生まれる。
名を菊幢丸(きくどうまる)。後の足利義輝である。
お父さんの足利義晴は当時、室町幕府管領の細川晴元と戦の真っ最中!
しかも連戦連敗で、負けては本拠地の坂本(現在の滋賀県大津市)まで脱出の連続でした。
この当時、将軍の嫡男は別の屋敷で育てられるはずだったのですが、義輝は両親の元で育てられたのです。この時からすでに異例でした。
ちなみに住んでいたのは近江坂本。2020年の大河ドラマの主役、『明智光秀』の縁の土地です。
義輝は11歳の時に将軍となり京に入りますが、翌年12歳の時に細川晴元の攻撃で、また京から坂本に脱出します。
その戦の後、なんとか仲直りをして和睦を結ぶと細川晴元も義輝を認め、京に戻りました。
12歳の少年将軍にしてはかなり波乱な幕開けだったのです。
さて、細川晴元と和睦をして、さあこれから~という時に晴元の部下、三好長慶が裏切って義輝を攻撃!またもや坂本へ避難・・・
翌年には、父である義晴が死去。
その後の和睦交渉も失敗し、部下の一部が離れ、三好長慶を暗殺する計画も企てますが失敗に終わりました。
この1年はいいところが全くない義輝でしたが、ついに三好長慶と和睦をし配下とする事で『最大の敵』を取り込むことに成功します。
やっと将軍としてのスタートラインに立てた義輝でした。
◆義輝は戦国武将の『仲裁の達人』?!
これを教訓にしたのか、義輝が進めたこととは、なんと『戦国大名達の仲直り』です!
これによって将軍の権威を高めたのですが、仲裁されたメンバーがすごかった!
- 伊達晴宗VS伊達稙宗
- 北条氏康VS里美義堯
- 武田晴信(信玄)VS長尾景虎(上杉謙信)
- 島津貴久VS大友義鎮(宗麟)
- 毛利元就VS尼子晴久
- 今川 氏真 VS松平元康(徳川家康)
- 毛利元就VS大友宗麟 etc
まさに仲裁将軍!・・・ですが、それほど戦だらけの世であったことと、幼少期の経験から『戦の終結』を望んだ結果ではないでしょうか。
◆義輝のここがすごい! 歴代将軍屈指の『剣豪将軍』とは??
義輝はその逆境があったからか、武術に大変のめり込みます。
そして、当時『剣聖』として有名だった鹿島新当流の塚原卜伝(ぼくでん)を招き、その指導を受けると奥義『一之太刀』を伝授され、歴代征夷大将軍の中で『最も武術の優れた将軍』と言われるほどでした。
また、義輝は新陰流(しんかげりゅう)の上泉信綱からも指導を受けたとも言われ、弓馬は小笠原長時から手ほどきを受けたという、まさに『剣豪将軍』。
しかし、その武術が発揮されたのは皮肉にも最後の時でした。
永禄8年『Mr 二心』松永久秀と三好三人衆は謀叛を起こし、軍勢を率いて二条御所を襲撃。
義輝がいる二条御所に敵の手が迫ります。
義輝は将軍家秘蔵の刀、数本を畳に突き立て、名刀『三日月宗近』等を手に迎え撃ち、刃こぼれする度に新しい刀に取り替え、敵兵を薙ぎ払っていく。
一説に義輝は足利家秘蔵の刀を十数本も畳に刺し、上泉信綱に鍛えられ、塚原卜伝に伝授された奥義『一の太刀』をふるい、三好、松永の兵を斬り倒していったともいわれています。
しかし、畳で四方から押し包まれ、ついに最後の時は来ました。
戦っては敵わぬとみた敵兵は、畳を盾に四方から十重二十重に押し寄せ、押し込んで串刺しにしたといわれています。
このエピソードのためか、義輝は鎌倉時代から江戸時代までの征夷大将軍の中で『最も武術の優れた将軍』といわれ、『剣豪将軍』『剣聖将軍』と称されることになりました。
この時の佩刀(はいとう)『三日月宗近』は平安時代の刀工『三条宗近』作。
刀身に鎬(しのぎという盛り上がり)と反りのある日本刀としては最古の一振りで、刀身に三日月形の打除けが数多くみられるのが由来と言われています。
刀の刃長は二尺六寸四分(約80.0cm)、反りは九分(約2.7cm)。
『天下名五剣』の中で最も美しい!とされた刀剣!
この後、三日月宗近は、三好政康から豊臣秀吉に献上され、そこからねねさん(!)~徳川秀忠に渡り、現在は東京国立博物館に所蔵されています。
◆まとめ
数奇な運命の元、将軍になった少年には殺伐とした戦だらけの時代がどう見えたのでしょうか?
生きれば勝ち、死ねば敗けの世界に義輝の心の拠り所は武術にあったのではないでしょうか。
心の平穏を剣に求めたのかは今となってはわかりませんが、義輝の死を知った『仲裁された武将達』は皆、激怒したそうで、あの上杉謙信等は『首謀者の三好、松永に死を』と祈ったほどだと伝えられています。
色んな人に『好かれた』剣豪将軍・足利義輝でした。