【池田輝政】『信長、秀吉、家康』に気に入られた輝政の魅力とは??『姫路城』を改築した理由、そして壁面の「白色」の意味とは??
特集
2020.03.07
(出典 Wikipedia)
みなさん「池田輝政」という武将はご存知ですか?
あまり聞きなれない名前かもしれませんが、なんと戦国時代に天下を統一に導いた「三英傑」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)全員に仕えたことがある武将です。
ホトトギスの歌にもあるように個性が全く異なる「三英傑」にどのように仕えていったかが、今回のポイントになります。
また、ユネスコの世界遺産にも登録されている「姫路城」(兵庫県姫路市)を大規模改修し、現在見られる大規模な城郭に拡張したことでも有名ですね。
それでは、「池田輝政」の生涯に迫っていきましょう。
※こちらの記事でも池田輝政に触れていますので、ぜひこちらも合わせてお読み頂けたら幸いです。
目次
◆輝政は生まれながらに『信長』に仕えていた!?
(池田家家紋)
1564年、「池田輝政」は尾張国で「池田恒興(つねおき)」の次男としてが生まれます。幼名は「古新」(こしん)といいました。
この当時は、すでに室町時代の終わりが近づいていて、この後、織田信長や豊臣秀吉が「天下取り」を目指していく、そんな戦国の乱世が始まる時に生まれたのです。
輝政が子供の頃の性格は口数が少なく、温和な性格といわれております。
そして、真面目な性格でした。この性格が今後の輝政の活躍の支えになります。
輝政の父、そして祖父は織田家の家臣として仕えており、父の恒興は「織田信長」の重臣(重職にある家臣)でした。恒興は「桶狭間の戦い」などで織田家に貢献します。
このように、輝政は生まれながらに織田信長と深い関わりを持っていたのです。
もちろん、輝政も信長に仕え、兄の元助(もとすけ)とともに信長の近習(護衛役)となります。
輝政と信長のエピソードとしては「花隈城の戦い」が有名です。
1580年に、織田信長に謀反をおかした「荒木村重」を、池田家を中心とした軍で摂津国(現在の大阪府〜兵庫県)にあった「花隈城」で戦をするというものです。
輝政はその戦において敵の武士5、6名を討ち取り、池田軍は最終的に荒木村重を相模国(現在の神奈川県)の毛利氏のところに亡命させ、戦を終わらせました。
これらの功績が信長に認められ、信長から感状を授けられることになるのです。
また、父と兄も武功が認められ、父の恒興は荒木村重の旧領(村重が元々もっていた領地)を与えられ、兄の元助は名馬を与えられました。
輝政は「三英傑」の一人目、「信長」の家臣としてこのように功績をあげ、仕えていくのです。
◆当主『信長』の死。そして『天下人』の家臣へ…!!
(豊臣秀吉像 浜松元城町東照宮 静岡県浜松市)
織田家に仕えていた輝政ですが、ここで大事件がおきます。
1582年、信長は家臣であった「明智光秀」の裏切りにあい、光秀に対して為す術がないことが悟り、自身がいる寺に火を放ち自害してしまいました。
こちらが後にいわれる「本能寺の変」です。
代々仕えてきた織田家の当主が明智光秀による謀反により亡くなったことは、池田家はもちろん、信長に仕えていた家臣たちは光秀に対して大変腹わたが煮えくり返ったことでしょう。
信長の死から約2週間後、家臣たちは明智光秀討伐に動きます。
討伐に向けて中心で動いたのは「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)で、輝政と父恒興も秀吉に従い光秀討伐を進めていきました。
秀吉や輝政らの軍と光秀の軍は戦力に大きな差があり、秀吉らの軍勢は約4万人に対して、光秀の軍勢は約1万6千人であったといわれております。
この軍勢の差から戦は短期間で終わり、光秀は敗走し、最終的には落ち武者狩りにあい亡くなりました。こちらを「山崎の戦い」といいます。
こうして、信長の弔い合戦は終了し、秀吉は信長が成し遂げられなかった「天下統一」を進めていきます。
一方輝政は仕えてた主が亡くなってしまいましたが、信長の側近でもあった秀吉に仕えるようになるのです。
ここから輝政は秀吉の家臣として、功績を積み重ねていきます。
秀吉と徳川家康が戦った「小牧、長久手の戦い」で輝政ら池田家は秀吉側につきますが、その戦において輝政は父と兄を亡くしてしまったのです。
その後の輝政と家康とのエピソードはこちらに載っていますので、ぜひご覧ください。
輝政は秀吉の「天下統一」を成し遂げるために、紀州征伐(紀伊の国への侵攻)、佐々成政征伐(越中国富山城の侵攻)、九州平定(島津氏などと九州の武たちとの戦)など数々の戦で活躍をし、秀吉の信頼を得ていきます。
そんな功績をあげた輝政に対して、秀吉は1587年に「羽柴」、そして翌年には「豊臣」の姓(かばね)を授けました。
この「姓」を授けるということは、当時としてはとても名誉なことであったようです。
また、秀吉の命令によって、輝政は徳川家康の次女である督姫(とくひめ)を継室(最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻のこと)に迎えます。
このことが、後に豊臣を苦しめることには秀吉は思ってもいなかったことでしょう。
輝政は「三英傑」の二人目、「秀吉」にこのように功績をあげ、仕えていきました。
◆輝政はついに一国の藩主に!! 『家康』にも気に入られた輝政の魅力とは??
(徳川家康像 浜松元城町東照宮 静岡県浜松市)
1591年、豊臣秀吉は織田信長が出来なかった「天下統一」を成し遂げることになります。
その後、秀吉は朝鮮をも掌握しようとし、朝鮮に出兵をするのですがその志半ば、秀吉は病に倒れ亡くなってしまいました。
次の「天下取り」の争いがここから始まるのです。
主に勢力を強めていったのが「徳川家康」であり、最終的には豊臣家と対することになります。
そんな中、輝政はどちらに従ったかというと「家康」でした。
輝政は元々秀吉に仕えていましたが、家康の次女を継室に迎えたことや、家康が次の天下人であると考えたからだと思います。
家康と秀吉の家臣であった石田三成との戦「関ヶ原の戦い」では家康軍として活躍し、戦においての功績から家康の信頼を得ました。
輝政は信長、秀吉、家康の信頼を得るためには、裏で政治工作などを行うことなどせず、戦で功績をあげることで、彼らの信頼を得ていったことがわかります。彼の真面目な性格は「三英傑」にも認められていたと考えられます。
その後、輝政は姫路城(兵庫県の姫路市)を与えられ初代の姫路藩藩主となりました。家臣として幼少期から仕えていた輝政はついに一国の藩主となったのです。
家康としては豊臣派の武将が多い西国(京都より西の地域)の目付役として、輝政を任命しました。
輝政はさらに家康が全国の諸大名に命じた「天下普請」(城などの改修の土木工事など)においても、江戸城や名古屋城の普請にも積極的に携わり、そこで功績をあげさらに信頼を得ていくのです。
そんな輝政に家康は「松平」の姓を授けました。この「松平」の姓は当時としては特別なものであり、家康から厚い信頼があったことが伺えます。
池田家は輝政の活躍によって、徳川家からの信頼も厚くなり、江戸時代終わりまで繁栄していきました。
輝政は「三英傑」の三人目、「家康」にこのように功績をあげ、仕えていったのです。
◆なぜ、『姫路城』は世界遺産に?? 輝政の作戦は『白色』!?
(姫路城 兵庫県姫路市)
輝政が現世に残したものとして、「姫路城」が有名です。
姫路城はユネスコの世界遺産にも登録されるほどの名城であります。
輝政は前述にもありますが、家康に姫路城を与えられ、姫路藩藩主として一国の主となりますした。
その姫路城の改築をしたのが輝政なのですが、その当時は家臣たちには反対されたようです。
その理由としては、当時姫路城があった場所が戦場としての地理的には不向きな場所であり、姫路城を本拠地とすると攻め入れられることを懸念してのことでした。
しかし、輝政は家臣の考えに反対をし、家臣たちに姫路城の改築を命じるのです。
その理由として「籠城(城に立て籠もって敵を防ぐ戦法)をしようと考えるのではなく、武士ならば討ってでなければ勝利はできない」といった内容のことを言ったとされています。
輝政の武士としての性格、そして戦国時代を生き抜いてきた強さが伺えますね。
1601年〜1609年に大規模改築を行い、現在の姫路城の姿にしました。
改築においては様々のことをしましたが、特に当時として際立ったことは外壁を「白漆喰」(しろしっくい)で塗ったことです。
当時の城の外壁の色の主流としては「黒」を基調とした色で、全く正反対でした。
この理由は諸説あり、「黒」は豊臣家などの城で用いていた色でしたので、徳川の時代であることを象徴するために「白」を用いたという説があります。
徳川の城である彦根城や名古屋城の壁面も「白」で塗られていますよね。また家康の本拠である「江戸城」も「白」で塗られていたとされています。
また輝政が戦乱の世が終わることを考え、「美による威嚇」をするために「白」にしたという説もあるようです。
そんな姫路城ですが1993年に日本で最初のユネスコの世界文化遺産に登録されます。
その理由としては、歴史的木造建築物の美的完成度として他国にも類をみない最高のものであり、また保存状況もとてもよく日本独自の城郭のつくりを示している、などの理由で選ばれたようです。
約400年前の輝政の功績が現世でも評価されるということは、とても感慨深いものがありますね。
輝政はその姫路城で最期を迎えることになります。
死因は中風(脳卒中や脳梗塞の後遺症で起こる身体の麻痺などのこと)であったようです。享年50歳でした。
輝政の死は急でしたので、豊臣秀吉の呪いではという噂もたったようです。
◆まとめ
池田輝政の生涯を振り返ってきましたがいかがでしたか。
「三英傑」に仕えてきましたが、彼らに対しての信頼を得る方法が「戦で結果をだす」という正攻法ということに、自分としてはすごい好感を持てました。
そんな何事にも真面目に取り組んできた輝政の残したものだからこそ、現世においても「姫路城」が評価されているのだと思います。