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戦国最強と言われた武田軍を率いた武田信玄!その強さの秘密とは?『風林火山』とは?死を隠せと命じた真相は?

(武田信玄 兜)

戦国最強といわれた武田信玄とは?

かの有名な『風林火山』とは? そして謎多き信玄の死因とは何か??

今回は『甲斐かいの虎』こと武田信玄の生涯に迫っていきます !!

 

◆武田信玄ってどんな人?

(出典  Wikipedia)

・出身地:甲斐かい国(現在の山梨県)

・生涯:1521年~1573年(享年 53歳)

・戦国最強と謳われた武田軍団の総帥にして、甲斐かい武田家19代目惣領そうりょう

・『風林火山』の兵法を用いていたことでも有名

・その強さから『甲斐かいの虎』という異名をもつ

◆信玄のここがスゴい!

(武田神社 山梨県甲府市)

「武田信玄」甲斐国かいのくに(現在の山梨県)で生まれます。

「信玄」という名前は出家後の名前であり、幼名は「太郎」、後に「晴信」と名乗りました。

兄の竹松が7歳でこの世を去った為、父である信虎の嫡男ちゃくなん(正室が産んだ最初の男の子)として育てられます。

その当時、乱戦を制し甲斐かいの統一をした父の信虎は、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点とした城下町を形成しました。

実は武田家の本拠地は『城』ではなく『館』だったのです。

この躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたは現在の『武田神社』になっています。

そんな武田家に生まれ、信玄は嫡男ちゃくなんとしてなに不自由なく育つ・・・とはいきませんでした!

弟、信繁が生まれると、父である信虎は弟を溺愛します!兄の信玄はピンチとなるのです!

そのような中、元服げんぷく(成人を示すものとしての儀式)前に11歳で結婚します。しかし翌年、難産が原因で母子共に亡くなり、12歳という若さでバツイチになりました。

その後、15歳で元服し『晴信』と名乗ります。

この頃から父の信虎は次期当主を弟の信繁にしようと考え、信玄と信虎との関係が悪化していきます。

そしてついに信玄は父信虎が戦に出た帰りにクーデターを起こしました。

甲斐かいから出ていってもらいます!』

信玄は父親を駿河に追放したのです。

なんと信玄は『父を追放して当主の座におさまった武将』でした。

◆風林火山

(武田信玄 甲冑)

信玄は『孫子そんし』という古代中国の兵法家が書いた兵法書(戦のテキスト)をよく使って戦を勝利に導きました。

信玄がその本を用いて戦上手ならば、他の人も使えばいいのでは? と思いますが、そのような考えは必ずしも成功するとは限らないのです。

同じ参考書を使っても、問題を解ける人と解けない人がいるように、よく理解し、適切に使えるのは『その人』次第のところが大きいですよね。

その孫子そんしの中にある有名な文句に『風林火山』というものがあります。

はやきことの如く しずかなることの如く 侵掠しんりゃくすることの如く 動かざることの如し』

意味は攻める際は風のように速く、機会を待つ際には林のように落ち着き、侵略する際には火のように勢いよく、自分の陣営を守る際には山のようにどっしりと構える」というものです。

信玄が戦で用いた軍旗には「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(孫子そんしの原文)が書いてあり、信玄が兵法に用いていたことがわかりますね。

しかしこれには続きがありました。

この文がある孫子の軍争篇の第七にはこの先に『知りがたきこと陰の如く 動くこと雷霆 (らいてい→雷)の如し』とあり、実態を掴ませず、移動をことさらテキパキとさせ、戦の前後のことも重要で、それによって『だからこそ状況に応じて軍を変化させ、有利になるように軍を動かす事も大事である』とも記してあります。

この参考書(孫子そんし)も信玄の強さの1つだったようですね。

◆信玄の死を隠せ! 信玄の死因には様々な説がある??

信濃平定、川中島、織田信長との激戦を経て、三方ヶ原では家康をコテンパンに(一説で家康はこの戦いで恐怖のあまりお漏らしをした)して、無敵の武田軍といわれた信玄でしたが、とうとう最後の時がきます。

信玄は野田城を落とした直後くらい、または、三方ヶ原の戦いの首実検(戦場で討ち取った首が、本当にその者かどうかを大将が自ら検査をすること)のときから度々、喀血かっけつ(肺、気管支系から血がでて、せきとともに吐き出すこと)していたとも伝えられてます。

元亀4年(1573年)信玄の病状悪化から、武田軍の京への進撃は突然停止しました。

そして4月12日、軍を甲斐かいに引き返す三河街道上で死去します。享年53歳でした。

そんな信玄の死に関してですが、死因などに様々な説がありますのでご紹介します。

信玄の死因に関しては、侍医の御宿監物おんじゅくけんもつ書状(戦武)によれば持病の労咳ろうがい(肺結核、肺炎)となっております。

『甲陽軍鑑』によると胃または食道癌による病死説が有力とされています。

しかし、江戸時代は新井白石が執筆した『藩翰譜(はんかんふ)』においては、三河野田城攻城における狙撃が原因と記されているようです。

また近年には日本住血吸虫病(感染症)での死因説も浮上しました。

大体の死因説は上記がポピュラーなものとなっております。

臨終の地点は、小山田信茂に宛てた『御宿監物おんじゅくけんもつ書状写』によると、信濃国駒場で最後を迎えたようです。

信濃国駒場は今の長野県下伊那郡阿智村辺りだとされます。

『甲陽軍鑑』では、信玄は遺言で『我が死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事』と記したとされているようです。

勝頼(信玄の息子)に対しては『信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事』と、山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後を託したとあります。

勝頼は律儀に遺言を守り、信玄の葬儀を行わず(すごい突かれたろうに)、死を秘匿しました。

甲府岩窪の魔縁塚まえんづかを『信玄の火葬地』と言う伝説もあるようです。

また、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文めいぶんがある棺が発見されたという記録があります。

と言うと、死んですぐ内密に火葬した可能性もあり、そうなると『疫病説』も可能性も考えることができます。

かくて信玄は死に、その死によって武田軍は気持ちの上でばらばらに崩れていきました。

当時の情報伝達がいかほどかはわかりませんが、信玄の死は戦に多大な影響があったことでしょう。

この後『長篠の戦い』での敗退をきっかけにさらに武田軍は瓦解がかいしていきました。

◆まとめ

信玄の有名な言葉で『人は城 人は石垣 人は掘 情けは味方 仇は敵なり』というものがあります。

命のやり取り、裏切りが日常茶飯事だった戦国時代にあって信玄は、やはり大事なのは『人』である! と言っていたことがスゴいです!

信玄は父親を追放したり、実の息子を切腹させたりした事もあったのですが、領民からは絶大な支持を得ていました。

それも『人』を大事にしていたからなんでしょうね。

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