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関ヶ原での『敵役』石田三成。彼は本当に『憎まれた悪役』だったのか?

戦国大名の考え方で、戦国時代以前と以降の戦の決定的な違いは『国盗り』と『統一』です。

戦国時代前期までは『隣国一帯を手におさめる』くらいで済んだ支配観は、信長により『全国区』になってしまいました。

そして、大名達には『与えられた国を治め、民を安んじる』という、いわゆる『官吏かんり』としての能力が必要になります。

その能力に長けていたと云われるのが三成でした。

異例の経歴を持つ三成、召し抱えられかたも異例!

今回はそんな秀吉ファミリーの異端『文官』である三成の知られざる素顔に迫ります!!

 

◆ 石田三成ってどんな人?

(出典:Wikipedia)

・出身地:近江国(現在の滋賀県)

・生涯:1560年(永禄3年)〜1600年(慶長5年)*享年40歳

・若い頃から豊臣秀吉に仕えて天下統一に貢献

・天下統一後には五奉行の1人として政権の中枢で活躍

秀吉の死後は豊臣陣営の防衛のために関ヶ原の戦いを起こす

・関ヶ原の戦いに敗れた後、家康によって処刑される

◆ 『三献茶』を振る舞ったことで異例のヘッドハンティング

秀吉の子飼いの将の内、石田村の寺から引き取られたという異色の経歴を持つのが三成です。

あるとき、秀吉が領地視察も兼ねて、遠駆け(馬で遠くまで出掛けること)した時のこと。

領内の訪問すべきところといえば、役所代わりの施設であり、智力、財力どころか軍事力も保有していた施設の『』でした。

またお茶屋も喫茶店ももない時代、お茶を一杯飲むのにも一苦労だったので、いくら秀吉といえどもお茶を飲むには大きめの民家かお寺にでもよらなければ飲めなかったんです

かくして、秀吉はあるお寺に立ち寄り、住職に『お茶をくれ!』と言いました。

そこにお茶を持ってきたのが佐吉という少年でした。

佐吉が大きめのお椀のお茶を置くと、秀吉はおもむろに飲みました。

するとそれは『ぬるいお茶』でした。

馬から降りたばかりの秀吉『なんと飲みやすい!』と、お茶を飲み干し、お代わりを要求します。

すると佐吉は、今度はやや温かいお茶を持ってきました。

『ほう、じんわり温かい』

秀吉はまたお代わりを要求すると、今度は小振りの湯飲みで熱々のお茶を出しました。

喉が渇いてる時には大きめのお椀のぬるいお茶にして、杯数を重ねるごとにお茶の味がしっかり伝わる温かいお茶を差し出すという佐吉の心遣いにピンと来た秀吉

『住職!この茶坊主、わしにくれ!』

この佐吉という少年が、後の『石田三成』だったのです。

◆三成のここがスゴい!「家臣に自分の給料を全部あげちゃう?!」

若き三成の不利な点、それは『家臣』でした。

「幼い頃に秀吉に見出だされ~」と言うと聞こえは良いが、三成自身はそれが故に、秀吉同様譜代の家臣がほとんどいなかったのです。

そんなまだ無名の長浜時代、新井某という武将がいました。秀吉には「2万石出す!」と言われた猛将です。

彼が欲しかった三成は、あろうことか俸禄ほうろくの500石すべてを新井に差し出してしまいます。

収入がなくなってしまった三成は、しばらくの間、なんとその新井の館に『居候』していたらしい。

しかし、三成は堂々と『主の禄を使うのは当然である。それは優れた家臣の為に使うのがよい。(略)』と言ったといいます。なんとも三成らしいエピソードです。

この話には後日談があり、三成が出世して、新井に俸禄ほうろくの加増を持ち掛けたが、新井は頑として500石以上は受け取らなかったという。

それは最初に新井を召し抱えた時の三成の禄と同じ額で、当時の『三成の精一杯』を分かっていたからだったのでしょう。

その後、秀吉により水口城主4万石となった三成。

秀吉が『この間、禄を加増してやったから大層家来を抱えられたろう?何人抱えた?』 と尋ねると、三成は『はい。1人』 と答えました。 

続けて秀吉が『たった1人? 誰を家来にしたんだ?』 と問うと、三成は島左近しまさこん殿です』 と答える。

秀吉は驚き島左近しまさこんといえば、天下の猛将ではないか!一体、いくらで召し抱えた?』 と聞くと、三成はにっこり笑い 『されば、私の禄高四万石の半分の二万石を受け取って頂きました』 と語る。

これを聞いた秀吉は『君臣の禄高が同じというのは聞いたことがない』 と三成の人となりを笑ったそうです。

◆ 石田三成が『悪役』とされるのには理由があった

文治派ぶんちは』と云われた三成は『武断派ぶだんは』といわれる加藤清正らと何かにつけて対立します。

清正は三成に『わんさん者』というあだ名を付けています。

その意味は『こそこそ告げ口する者』という意味でした。

『現場組』の清正らには『キャリア組』の三成が鼻についたんでしょうね。

朝鮮出兵の時にも『俺に不利な事を秀吉様に言いつけた!』と激怒し、対立は悪化。

そんな中、三成を唯一庇ってくれた秀吉が没すると、とうとう清正達は『三成襲撃事件』を起こします。

このとき三成を保護したのは『政敵』の家康でした。

家康は三成が好きだったか?

いやいや実は家康は五人いる『五奉行』の一人である三成を「天下を狙うなら一番の邪魔者は三成!」と危険視していました。

三成はそんなことはかまわず、ひたすら『豊臣政権のために!』と勤めます。

しかし、家康はどんどん力をつけ、豊臣家を脅かすくらい大きくなり、そんな家康を三成もまた『危険』と見ていました。

そして1600年、ついに三成は家康に戦いを挑みます。

かの有名な『関ヶ原の戦い』です。

三成は五奉行とはいえ19万石の小大名だったので、総大将には毛利氏になってもらいました。

終わった後の『自分の手柄』を控えたともとれるその態度もあって、たくさんの武将達が参戦し、その数は家康の軍勢を上回っていました。

ところが、家康は多くの武将達を自分側に寝返らせます!

そのため三成は惨敗し、百姓に身をやつして戦線を離脱。

このとき、地元の人々が三成の逃亡を助けたエピソードがあります。

しかし三成は見つかり、戦のあった慶長5年9月5日の6日後、9月21日に捕らえられて、10月1日に処刑されてしまいます。

『悪役』とされた三成の辞世の句は筑摩江つくまえ芦間あしまに灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけりああ、あの芦の間に燃えているかがり火がやがて消えていくように、自分の命ももうすぐ筑摩江つくまえ潰(つい)えてしまうのだな」)』でした。

関ヶ原以降、徳川政権が盤石になるまでは『敵の象徴』が必要と考えた家康が考えたスローガンは『三成は悪人』というもの。

今の様にメディアの発達も情報もない時代、勝利しさえすれば情報操作など容易にできたと推測されます。

◆ 領民に親切だった三成の旗印「大一大万大吉」。その意味は?

三成が佐和山をおさめていた頃、それ以前とは明らかに違う政策がありました。

彼は米の出来高を聞いてきたのだそうです。

それまでは『このくらいの米が作られる広さの田畑』から換算した『予想』で年貢米を納めさせられていました。今のような品種改良も進んでいない米です。天候不順などで不作の年もありました。

しかし、年貢は『これくらいの米ができる概算分だけ納めろ!』という乱暴な計算で行われていたのを三成は『出来高換算でよい』と言ったとされています。

検地をしたり、兵糧等を担当していた奉行としての見地からだったのかもしれませんが、領民にとって三成は『対話ができる殿様』だったようで、同輩には嫌われたが、下には好かれる上司だったようです。

以降、佐和山の民は『自らを石田の殿様の家臣』と呼ぶ様になります。

しかし、三成の死後、彼の佐和山城は城下街までも、家康の命令により徹底的に破壊されます。

家康の一番気に置いた所は『戦後処理』でした。

佐和山の民は『三成の話はおろか、それ以前にあった昔話をするのも禁止』というお触れが出されました。

三成の墓も無惨に破壊され、新たに城が建設され『旧石田家臣』は士分剥奪、または足軽に降下され、しいたげられました。以降、家康は『悪の三成を忘れましょう』と時間をかけて、情報操作をしていきます。

ところが!佐和山の民は三成の勇姿を忘れていなかった!

文盲率も多かった頃、密かに『石田の殿様』の話を語りついでいったのです。

幕末、井伊直弼が失脚するころ『反徳川』の気運を背負った彦根藩士の中には羽織り裏に『石田家家臣』と書いた者もいました。

さらには破壊された墓石を密かに隠し持ち、仏壇等に隠し『家宝』として受け継いだ者もいたそうです。

後に、墓が再建された時に持ち寄り、奉納されたとのこと。

彼らはその石を奉納する時、そっと呟いたそうです。

『お帰りなさい・・・石田の殿様』

三成の旗印であり家紋ともされた『大一大万大吉』

その意味は『みんなで幸せになろう』という意味もあったんです。

◆ まとめ

ドラマや小説などで「三成悪人説」が定着してしまい、悪人として描かれることの多い三成ですが、秀吉のため、家臣のため、臣民のために真面目に尽くした三成の姿をどうぞ覚えておいてあげてください。

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