『したたかなキリシタン大名』 小西行長の生涯に迫る!!
特集
2020.02.01
元は堺の商人の子でありますが、キリシタンとなった変わり種の大名『小西行長』。
トントン拍子に出世をして、最終的には悪魔の化身になってしまったのだとか!?
今回は、2つのイメージを持っていると語られる小西行長の『素顔』に迫っていきます!
目次
◆小西行長ってどんな人?
(出展:Wikipedia)
・出身地:京都府
・生涯:1558年〜1600年(享年 46歳)
・商人であったが才能を見出され武将になり出世し秀吉の臣下となる
・キリシタン大名としてキリスト教の普及活動に熱心だった
・関ヶ原の戦いでは西軍として布陣したが捕まり処刑される
◆小西行長のここがスゴイ!堺の商人から城主にまで成り上がる!
小西行長は、現在の大阪辺りで商売していた小西隆佐の次男として京都で生まれたといいます。
次男でしたので、他家の商家の養子となります。
この家が岡山にあり、宇喜多家にも出入りしていたのが行長が武将になるきっかけになったのです。
そして当主の宇喜多直家(備前国の戦国大名)の目に止まり、宇喜多家に仕えることに!
つまり、商人の養子が武士に取り立てられたのでした。
しかもここで終わりません!
家臣となった行長、使者として秀吉の元に行くとやはり才能を見抜かれ、なんと秀吉に引き抜かれます!
しかも、秀吉家中では舟奉行、つまり水軍司令官となり秀吉の為に瀬戸内を掌握し、後に宇土城の城主となるのです!
いくら能力主義の人達に出会ったとはいえ、堺の商人の次男から城主にまで登り詰めるのは類に見ない非常に稀な例です。裏を返すとそれだけ行長が『優れた』人物であったと伺えます。
◆行長、実は〇〇なキリシタンだった!
天正12年(1584)、お友達の武将、高山右近のお薦めと、その教えに感銘を受けキリシタンとして洗礼を受けます。洗礼名は「アウグスティヌス」。
これによりキリシタンのネットワークを手に入れたともいわれ『機を見るに敏』だった事がわかります。
天草、志岐、栖本、大矢野、上津浦が起こした、天草5人衆の乱の時のことです。
この乱の鎮圧には加藤清正も出撃しました!
乱の平定は急務でありましたが、行長は民を『同じキリシタン故』と手心を加え、加藤清正がその鎮圧に『与力』した、と史書にあります。
まず戦をするには人と金と時間(手間)がかかります。そして武力鎮圧は領民の恨みも買います。
行長は加藤清正に『手柄を譲る』訳です。
清正は積極的にキリシタン狩りを行い、これによって加藤清正は天草のキリシタンに恨まれ、行長には『キリシタンをかくまってくれた』というエピソードがつきました。
これで『加藤清正を悪役にする事で、領民の恨みをそちらに向け、戦の出費も抑えられた』ともとれる結果になります。
しかも、清正に払う賠償も、ほとんど払っていません。
やはり商人出身!
『したたか』で『名より実』をとる、計算高く面の皮も厚い人だった様です。
その後の朝鮮出兵の際も、過日の恨みか『薬屋ふぜい』と清正に罵られると、自軍の船に当時の薬袋を表した『袋に赤丸』の紋を掲げ船印として使うなど、人を喰ったところもある様です。
行長はセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行ったり、 また、孤児院を建て、教会を建て、熱心にキリスト教の布教に力を注ぐといった活動もしていたのですが、これによっては『自領内の民の安泰』を得ました。
これを見れば小西行長は”したたかなキリシタン”とも捉えることができます。
行長は、加藤清正らいわゆる『武断派』と違い西軍に組しました。
当時は『西軍が絶対に勝てる布陣』でしたので、勝つだけが目的であったかと思える反面、家康の調略(政略結婚)を断って、あえて西軍にいるあたりに『美学』が見えます。
合戦後も世話になった人間に身柄を預け褒美を取らせたり、『キリシタン故自害はせぬ』と、武将の最後としては屈辱的な『斬首』を自ら選ぶ等、キリスト教に『殉じた』武将でした。
余談ですが、その後、行長の死体は郎党に引き取られ、キリスト教式に葬儀をし直されたそうです。
◆悪魔の化身
(出展:Wikipedia)
歴史上の人物を考察する際には『どう行動したか』といった視点と『(他の人から)どんなことをされたか』といった視点からその人物を評価する方法があります。
もう10年ほど前になりますが、私がある韓国の劇団さんの日本公演に関わった事があります。
内容は、日本で言う戦国時代、日本と明に挟まれ、苦悩する王子が描かれるお話で、その中に悪魔の様に憎まれる日本の武将として小西行長が登場します。
文禄、慶長の役で行長は加藤清正と共に先鋒を命じられ、朝鮮へ進攻。先鋒部隊として進撃し、不仲だった加藤清正を出し抜き、朝鮮の諸城を席巻します。
これにより朝鮮の人間から『悪魔の化身』の様に言われる様になった訳です。
韓国の行長のイメージは『侵略者、日本軍の大将』といったところです。
その劇中でも、キリスト教寺院に逃げ込もうとする主人公らが、十字架を見て『あれは小西行長の旗ではないか!』と叫ぶ場面がありました。
余談ですが、この時(文禄の役)の際に朝鮮人女子を連れ帰り、養女(ジュリアおたあ – ジュリアは洗礼名、おたあは日本名)にしています。
なぜか朝鮮側の資料は小西行長の動向ばかり残され、清正の活躍は日本ほどは伝わっていません。
日本の場合はおそらくは秀吉が清正ら『武断派』が報告した資料を重んじたせいでしょう。
おかげで行長は『日本ではマイナー、韓国では悪者』というポジションにおかれています。
関ヶ原では「西軍に付き、破れ、一度は逃れるも斬首される」と言う話が朝鮮側に伝わった時、民衆は喝采したと云います。
どうやら行長の名前は未だに『悪者』の様ですね。
◆まとめ
記録としての小西行長、
キリシタンとしての小西行長、
外の国から見た小西行長。
さらに近年の戦国ブームで、また別の行長の『イメージ』が出来上がっていることは私にとって衝撃でした。
新しい資料が出てきた昨今でもありますが、こういったエピソードは、新しい物語や新しいメディアを作る上ではとてもいい事だと思います!
歴史上の人物は『多面的』な見方があるんですね♪