あの徳川家康も恐れた『大谷吉継』とは? 豊臣秀吉に『100万の兵を指揮させてみたい』と言わしめたほどの武将! 義に生き、義に殉じた大谷吉継の魅力に迫る
特集
2020.05.02
義に生き、義に殉じた大谷吉継。
豊臣秀吉に『100万の兵を指揮させてみたい』と言わしめたほどの武将。
白い頭巾がトレードマークの異色の子飼い衆。
石田三成との友情、そして病をおしての関ヶ原参戦。
武将としては珍しく頭脳派でもある大谷吉継の魅力に迫っていきます!
目次
◆大谷吉継ってどんな人?
(出典: Wikipedia)
・生涯:1565年(※1559年説も有り)〜1600年
・出身地:近江国(現在の滋賀県) ※諸説あり
・豊臣秀吉の『子飼い』と呼ばれたる、有力家臣の一人
・石田三成と仲が良く関ヶ原の戦いでは共に戦った
・徳川家康が認める『軍師』としても有名
◆実は頭脳派!? 吉継は文武両道だった??
(大谷家家紋)
大谷吉継の生まれた場所については諸説ありますが、母親が秀吉の母の親戚筋だったようで、そのような縁から足軽上がりで元々の家臣のいなかった秀吉に仕えます。
吉継は加藤清正、福島正則、石田三成ら、秀吉の『子飼い』と言われる武将達の1人で、特に石田三成と仲がよかったそうです。
彼らは秀吉の周りを固め、戦の従軍、小姓として秀吉の身の回りの雑務をこなす訳ですが、吉継は他の武将と違っていたことがありました・・・
実は吉継、計算が得意だったようで、その分野で大活躍します。
集計や管理、土木関係の作戦に使う資材や兵士の人数の把握などをしっかりとこなす吉継は、秀吉に大変重宝されたのでした。
吉継は秀吉が本能寺の変を知った三木城攻めや中国大返し、賤ヶ岳(しずかたけ)の戦いにも参戦しつつ、三成と共に兵站(後方支援)や検地を任されるなど、言わば『戦だけの武将』ではなかったようですね。
賤ヶ岳の戦いでは加藤清正らの『七本槍』といわれた武将達の活躍が有名ですが、吉継は何人かの有力な敵の武将を調略、つまり密かに敵を味方に引き込むことに成功!
この敵を味方に引き込むということは、戦闘で敵を討ち取るよりも評価が高いと言われています。
1人も失わずに勝ったも同然、そして自分の味方も増えているわけですからね!
では吉継は頭脳のみの武将だったかというとそうでもなく『紀州征伐』と言われる遠征では最後まで抵抗を続けていた敵の武将を槍の一撃で倒したエピソードが伝わっています。
◆三成と吉継の『病』に関する友情秘話とは!?
文録・慶長の役という秀吉の朝鮮攻めが始まると『船奉行』という、船とそれに関わる資材の調達、管理を任され、秀吉もその働きに満足していたといいます。
しかしこのころ、無理がたたったのか吉継は病気になりました。
記録には『眼病を煩い』とありますが、一説にはハンセン病、または梅毒だったそうです。
そのため当初は温泉にいくくらいでしたが、次第に顔を白い頭巾で覆うようになります。
そんな中、秀吉が武将達の慰労に大阪城で茶会を開いたのです。
この茶会では、お茶を一口飲んで次の人に回すという作法があり、吉継もこの茶会に参加していました。
他の武将は吉継の口のつけた茶碗を嫌がり、口をつけたふりをしたのです。
しかし三成だけは口をつけるどころか、一気に飲み干し『あまりに旨いので飲み干してしまいました! これ以降の方々の為、おかわりをお願いします!』と別のお茶を出させ、吉継の心、他の武将、何より秀吉の『慰労』の3つを見事に成立させました。
このことに吉継は大変感動したと言われています。
ただ、病魔は容赦なく吉継の体を蝕んでいきました。
◆吉継のここがスゴい! あの家康も恐れた吉継の戦い方とは??
(大谷吉継のお墓 出典: Wikipedia)
秀吉が亡くなると、徳川家康が台頭し豊臣側の石田三成らと敵対し、いよいよ関ヶ原の戦いとなります。
家康の軍を東軍、吉継や三成ら豊臣家臣軍は西軍と呼称されました。
関ヶ原のお話では、吉継は冷静で思慮深く、三成の為に病の身を顧みず、義に殉じ三成の元へ・・・
というものが大体、有名なお話。
しかし! 大谷吉継は『西軍を仕立て上げた』人物でした!
いくつかあげると、まずは『宇喜多家のお家騒動』という事件がありました。
この時、吉継は仲裁役になり反乱派を説得したのですが、どうも反乱派がやたら強気だった
ほどなくして、家康が事件の調停に乗り出すと、反乱派はすんなりおさまってしまいました。
この時に吉継は見抜いたのです。
『宇喜多家のお家騒動そのものが家康の仕掛けだった!』と。
現に反乱派は関ヶ原で家康についており、吉継はいち早く体制を整えました。
そして三成による家康暗殺未遂事件ということがありましたが、これは三成ではなく吉継こそがやる気でイチオシしていたそうです。
吉継曰く『佐吉(三成の幼名)よ、お前は人望がなく、合戦にて家康を討ち取ることは難しいので、暗殺しちまった方が可能性はある!』と・・・
物騒ですが、一番現実的です。流石『実務の人』!
そして吉継はついに西軍につくと腹を決めました。
吉継が西軍についたことを知った時、家康の顔は真っ青に青ざめたそうです。
家康が敵に回すのを最も恐れたのは、上杉でも、懐柔して自分側に引き入れた加藤清正、福島正則ら『武断派』でもなく、秀吉に『大局を見れる! 百万の兵を指揮できる男』と言わせた吉継あったと言われています。
家康が吉継を恐れた理由の1つに、吉継の『先を読める目』がありました。
家康は吉継を、直情傾向にある他の武将と違い『自分同様2~3手先の、そのさらに先の思考を考えることができる男』と認識していました。
現に吉継は三成と相談をすると、早速書記役の家臣を集め、もうハンセン病で体が動かなかったため、口頭で言ったことを手紙にさせ全国に書状を送り、一滴の血も流さず北陸、加賀、越前の多くを西軍につけてしまったのです。
戦にあたって吉継は内部分裂も先読みし、総大将に三成ではなく大大名の毛利を担ぎ上げるプランで解消。
さらに東軍についた前田利長をニセ情報で加賀にくぎ付けに。
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そして関ヶ原では一番危ないと言われていた小早川秀秋を見張ると自ら小早川の布陣する松尾山の麓に配置。
まさに万全を期した吉継でしたがやはり家康は一枚上手でした。
小早川秀秋は西軍を裏切って家康の側に!
これに怒った大谷吉継軍と激突します!
この時、吉継はすでにほとんど動けずお神輿のようなものに乗っていました!
しかし、兵力の差もあり秀秋の軍にのまれていくのです。
この時無念の吉継は『おのれ小早川秀秋! 3年の内に祟りをなさん!』と叫び、ほとんど動けぬ体を動かし、切腹したといいます。
余談でありますが、小早川秀秋は関ヶ原の2年後、発狂して死んだようです。
◆まとめ
元々関ヶ原は若手VSチャンピオンの結果が見えた試合だったのを、互角以上のマッチメイクに仕立て上げたのはある意味吉継でした。
私には吉継が三成の『名セコンド』に見えて仕方がない。
セコンドとは『軍師』であり『相方』であり『選手の後ろの目』である。
吉継が五体満足だったら関ヶ原はまた違った顛末を迎えたことでしょう ・・・