【織田信長】(3)『天下統一』目前にまさかの裏切り!? 『本能寺の変』でついに織田信長死す!
特集
2020.08.30
(『織田信長像』 岐阜県岐阜市 JR岐阜駅)
長篠の戦いで武田勝頼を破り、その後朝廷から権大納言、右近衛大将に任ぜられた信長は『天下人』となりました。
その後『天下統一』を進めていく信長でしたが、突如悲劇が起きます。
あの有名な『本能寺の変』で信長は天下統一の道半ばで亡くなってしまうのです。
今回は信長の生涯の最後を迫っていきます。
◆再び包囲網!? 上杉謙信にも裏切られた『第三次信長包囲網』とは?
『天下人』となった信長は『天下統一』を目指し、さらに領地の拡大を進めていきます。
しかし、またしても他の戦国武将が包囲網を引いて信長の侵攻を阻止することを試みます。
その主な人物が信長に幕府を追い出された『足利義昭』です。
義昭はまず中国地方を支配している毛利氏を頼りにし、対信長の包囲網に信長と長年に渡って対立していた石山本願寺、北陸の上杉氏や松永氏らを要請し彼らも参加しました。
また、信長と関係が良かった丹波の波多野秀治、但馬の山名祐豊も半旗を翻し反信長派となったのです。
そのような中、信長は再び石山本願寺に攻め入り、圧力をかけていきました。
ここで本願寺は上杉謙信と講和をし、反撃にでます。
元々謙信は信長と同盟関係にあったのですが、この裏切りともいえる本願寺との講和は信長にとって寝耳に水だったことでしょう。
本願寺と講和をした謙信は義昭側につき、義昭らとともに信長を倒すことを選びました。
これにより信長と謙信の同盟関係は消滅し、あの戦国最強の武将『武田信玄』のライバルでもあった上杉謙信と戦うことになります。
謙信はまず能登に侵攻し、また謙信と同盟を組んでいた毛利元就は海上から本願寺の補給を始めました。
信長は元就に対して反撃をしますが、元就は信長の水軍を撃破し、本願寺の補給に成功させます。
信長は本願寺の周りから崩していくことを試み、紀州征伐を始めました。
こちらの侵攻はうまくいき、本願寺に圧力をかけていこうとしていた矢先に、信長の味方であった松永久秀が突如謀反をし、義昭側に付いたのです。
しかし信長はすぐに嫡男の信忠を派遣し、謀反を鎮圧させました。
一方、信長の家臣の柴田勝家は謙信がいる能登の七尾城に侵攻しにいきましたが、勝家が到着する前に城は陥落、また謙信の襲撃に合い敗北をしてしまいます。
謙信、元就にも敗れ風向きが悪くなる中、ここで信長にとって風向きが変わる大きな出来事が起こります!
上杉謙信が脳梗塞により亡くなってしまったのです。
謙信は元々大の酒好きとしても有名で、お酒の飲みすぎにより亡くなったと考えられています。
上杉家では跡取りを決めていなかったため、跡取り争いが起きてしまい、信長との戦から撤退しました。
信長は上杉という厄介な敵がいなくなり形勢が逆転します。
その後、信長は戦を優位に進めていき、ついに石山本願寺との講和に合意することができました。
これにより第三次信長包囲網 が終わったとされています。
◆天下人の終わりは突然… 『本能寺の変』で信長死す!!
(『本能寺焼討之図』 出典: Wikipedia)
信長は第三次信長方包囲網を征圧し、中国地方に信仰、そして信玄亡き甲州を継いだ武田勝頼征伐し、家臣の滝川一益が勝頼に自害させるなどし、天下統一を進めていきました。
しかし! 数々の困難、戦をくぐり抜け天下統一を進めてきた信長でしたが、戦国一
の武将の終わりは突然やってきます。
信長は毛利征伐の支度をするため、本能寺にいました。
その時、周りの家臣はというと、柴田勝家は北陸に遠征、羽柴秀吉は高松城を攻め、徳川家康は安土城を訪問しており、側近の有力家臣は信長から離れたところにいる状態でした
信長は有力家臣の明智光秀に秀吉の援軍を送るように命じ、光秀はそれに応じ軍を率いて秀吉のもとへ向かったと信長は考えておりました。
しかし、光秀が向かった先は秀吉のところではなく、信長がいる本能寺に軍を率いて乗り込みました!
光秀が信長のところに向かった理由、それは主である信長を討伐することだったのです。
様々な武将の裏切りにあってきた信長でしたが、信頼を置いていた光秀の裏切りは予想だにしなかったことでしょう。
信長の側近家臣らが戦などで遠方にいるため、信長がほぼ無防備の状態という好条件を光秀は狙ったと考えられます。
光秀は約1万3千の軍勢を率いて本能寺に乗り込みます。
自軍が手薄になっていた信長は、自らも槍などで対抗しますが、周到な計画を立てていた光秀の奇襲にはさすがの信長も防戦一方でした。
信長は光秀に討たれることを悟り、自ら本能寺に火を放ち、自害をします。
1582年5月29日、この出来事が後に言われる『本能寺の変』でした。
享年49歳。
光秀が信長を裏切ったはっきりとした理由は現在でも分かっておらず、謎に包まれています。
その後、信長に代わって『天下人』となった光秀でしたが、信長ほどの求心力がなかったため家臣が集まらず、秀吉らにすぐに討伐されしまい、『三日天下』となってしまいました。
◆まとめ
信長の生涯の最後までみてきましたがいかがでしたでしょうか。
数々の裏切りにあっても勝ち抜いてきた信長でしたが、側近の家臣の光秀だからこそ
信長を討つことができたのかもしれません。
ただ信長は人を見る目というものには非常に長けており、信長の死後活躍する秀吉や家康を見出していたことは、信長の功績の一つでもあります。
三部作となりましたが、最後までご覧いただき誠にありがとうございました。